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琥珀の銘:6・7


それから一週間の間、お嬢様は学校を休み続けた。
担任は季節外れのインフルエンザとか言っていたけれど、たぶん嘘だろう。あまりにもタイミングが良すぎるし、それになにより、吸血鬼は代謝がいいから、基本的に病気にならないはずだ。
なんとなく、気分が晴れなかった。
お嬢様と顔を合わせても気まずいのは分かり切っていたけれど、それにしてもなんだか気持ちが悪かった。
まるで何もなかったように一週間を過ごした僕は、やはりなんとなくモヤモヤしたものを抱えたまま、日曜日の朝を過ごしていた。
本当に平穏な一週間であった。放課後は久々に友人とゲームセンターに寄れたし、ここのところ久しく行っていなかった行きつけの本屋にエロ本を買いにいったりもした。生徒会に所属している友人に頼まれて生徒会の手伝いをしたりすることもあった。僕の目的は生徒会長の上向きのおっぱいだったけれど。授業が半ドンだった昨日は、花村と、ちょっと足を延ばして新宿に出たりもした。
吸血鬼なんて物騒なもの、影も形もなかった。
なのに、こんなに平穏で楽しい毎日なのに、どうして、物足りなく思えてしまうんだろう。惰性で動くだけの、どこか非現実的な日々に感じてしまうのは、どうしてだろう。
結局、僕は、今日一日家に籠って過ごした。何を見ても全く面白くないテレビを眺め、読みかけの小説を読み、食事は適当にコンビニで買って済ませた。
何もしていない時間があると、つい、お嬢様のことを、ミノリさんのことを考えてしまう。いきなり吸血鬼って言われたって、人間じゃないって言われたって、どうしろって言うんだ。こんな時、漫画やなんかだったらそんなものを気にしないで、彼女たちと向き合って、向き合うことができて、ハッピーエンドなのだろうか。
でも、僕にはそんなことできそうにもなかった。
そもそもが、僕は彼女たちに対して何を思っているのか、彼女たちに抱く感情がなんなのか、彼女たちにどう向き合ってゆけばいいのかはっきりとわかっていないし、それに、彼女たちは、やっぱり、吸血鬼なのだ。
彼女たちは、僕と違って、血を啜る。血を欲する。
それは、きっと僕には永遠にわからないことだ。それこそ、吸血鬼にでもならないと。向き合ったところで、僕には彼女たちの欲がわからないのだ。彼女たちが僕に向ける、血欲というものが、わからないのだ。
純粋に、わからないものは怖いと思うし、何より、不安なのだ。彼女たちは僕を、血袋としてしか求めていなかったんじゃないかと。
考え込むたびに永遠に同じところを回るものだから、できるだけ、何もしない時間を作らないようにして、一日を過ごした。
そうこうして、いつもならやらないようなことまでして時間を潰していると、夜の十時を回ったころにチャイムが鳴った。こんな時間に誰だろうか?最近物騒だし、気を付けた方がいいかな。
「はーい」
「こんばんは。夜分遅くにすみません」
 ドアを開けると、ミノリさんが居た。いつも通りのメイド服を着ている。この格好でここまで来たのか。ご近所で噂になったりしたらどうしよう。時間も時間だし、目撃者もそんなにいないだろうけど。
それにしてもなんだか懐かしい。この人と会うのも一週間ぶりだろうか?
「ミノリさん?どうしたんですか?」
「いえ、ちょっとお話がありまして。今、いいですか?」
 まあ、どうせやることもないのだ。ぞれは全然構わないのだが。
「はあ、まあ、構いませんけれど。どうぞ」
「お邪魔しますね」
 とりあえず居間に案内すればいいだろうか。友人として見たら、自室に案内した方がいいのかな。いや、相手は女性なんだぜ?女性が家に来た経験なんてまったくない。どうするのが正しいんだろうか?
「今日は、どうしたんですか?話、って?」
「ねえ、それより、トモ君の部屋、行ってもいいかしら」
 彼女は、僕の質問には答えずにそう言った。彼女に、僕のことを好きだと言ってくれた彼女にそんなことを言われると、少し意識してしまう。
 ――彼女は、吸血鬼だけど。
 それでも、うかつにも先走った息子が少し反応して、履いていたチノパンを少し盛り上げた。
 僕が彼女を先導している風だから、彼女には見えていないはずだ。部屋に着くまでには収まるだろう。もちろん、余計なことを考えなければだけど。
 必死になってなんでもない風を装いながら、顔を彼女の方に回して、言葉を返した。
「はあ、そりゃ、別にいいですけど。そんなに、その、話しにくいような内容なんですか?」
「ええと、そういうわけじゃないんだけどね」
 やけに優しい表情で、彼女が微笑んだ。
「じゃあ、こちらへどうぞ。すいません、ちょっと散らかってますけど。今お茶を淹れてきます」
「ああ、お構いなく。それより」
「じゃあ、とりあえず、椅子、どうぞ」
ミノリさんに椅子を勧めて、僕はベッドに腰掛けた。
「それで、話って」
「ええ。お嬢様と正樹さんは、引っ越すことになりました。どこか遠くに。もしかしたら、国外かもしれない。そこまでは知らないんだけど」
 本当に、本当にあっさりと、ひとかけらのためらいもなく告げた。少しばかりピンク色の妄想をしていたのだけれど、そんな気分は一瞬にして吹き飛んだ。
 お嬢様が、引っ越す?
 また?また彼女は、僕の前からいなくなるのか?
「なんで、なんでそんな、急に」
「あなたに吸血鬼のことがバレちゃったから。――いえ。お嬢様が、我慢していられなくなったから」
 ここ一週間、お嬢様が学校に来なかったのは、そういうことなのか?来ても、しょうがないから?それとも、そもそもが、僕と距離を取るため?
 恐らく、後者だ。
「どういう、ことですか」
「知らない。私は、彼女のこと、説明したくないわ」
 温和な彼女にしては珍しく、冷たい口調で、ともすれば侮蔑を含んでいるかもしれない声色で彼女は言った。
「そんな……それで、ミノリさんはそのことを言いに?」
「ううん?もっと大事なこと。私はあそこに残るのよ。大学にも通わなきゃならないものね」
 彼女はいったんここで、言葉を区切った。
「だから、二人で暮らさない?あの屋敷に一人じゃ寂しいものね」
 唖然とした。僕を取り巻く状況が理解できなかった。お嬢様がどこか、どこか遠くに引っ越して、僕とミノリさんが、二人で、お嬢様たちのいない屋敷に暮らす?
 しかも、それは「そういう」ことだろう。
「お金なら心配ないわ。私には、十分な、維持費みたいなものが出るし、最悪アルバイトしたっていいし」
 僕が唖然としていると、彼女はそう付け加えた。
 なぜか、お嬢様に対する後ろめたさみたいなものを感じた。お嬢様が居なくなった屋敷で、僕とミノリさんの二人で暮らすなんて、どこか、彼女に申し訳ない気がしたのだ。落ち着いて考えたら、彼女と僕はただの雇用関係であったことしかなくて、今にしてみればただの顔見知りのようなものだというのに。
 それに――その生活は、僕にとって、一人より、寂しいんじゃないだろうか。
「ええと――その、」
 無言の空気に耐えきれず、口を開いた。だけど、もちろん、何を口にすればいいものかわからないからこそ無言であったのであって、僕の口から続く言葉が発せられることは無かった。
「まだ、答えは出てないの?一週間ぐらい、経ったけれど」
 何も答えられなかった。答えを出せていない気まずさみたいなものもあったし、何より、この場の、異様な雰囲気に呑まれてしまったのだ。
 僕が口を開かないことを見透かしてか、ミノリさんが続けた。
「でも、もうだめよ。もう時間切れ。もう私も、我慢できないもの」
彼女は、椅子を立ち、ベッドに腰掛けた僕の目の前に来て、そっと屈みこみ、僕の顔に手を添えて、耳元でやさしく囁いた。耳に彼女の温かい吐息がかかる。くすぐったい。
香水の匂いだろうか、兎に角、鼻腔を通って、脳みそを甘く溶かすような彼女の香りがして、一瞬にして体が彼女を抱こうと準備をしてしまう。ブラウンのチノパンに締め付けられた股間が痛かった。
「わたし、トモ君の事、好きよ。どう(・・)しても(・・・)、自分のものにしたいくらい」
どうして、どうして僕なんかのこと。
「どうして、そんな」
  僕なんて、自分がどうするべきか、どうしたいのかもわからないし、性欲にまみれている矮小な凡人だというのに。
蕩けている頭をどうにか回して、理性で自分を押さえつけた。
「だって、あなたの血、飲んじゃったんだもの。今までずっと我慢してたのに、何も知らないあなたが、無防備なものだから。信じられないくらい、美味しかった。あなたの血、相性がいいみたい。もう忘れられない。あなたに血を飲ませてでも、わたしのものにしたい」
「そんな、それだけで、そんなことで」
 信じられなかった。彼女は、彼女たちは、僕のことを、食料としてしか見ていないのか。
「あなたは、僕の血が欲しいだけなんですか」
 好きって言ってくれたのも、僕の血のため。食事のため。
彼女は、本当に、本当に優しい声色で囁いた。
「大事なことよ。あなたの血も、あなたの性格も、あなたの容姿も、すべからくあなたの要素。あなたの人格を愛すのも、あなたの容貌を愛すのも、血を愛すのも、すべて同じこと」
いや、そうじゃない。それがきっと、吸血鬼なのだ。これがきっと、彼女の、吸血鬼の愛し方なのだ。お嬢様もそうだった。だけど、お嬢様は必死に、血と、血を求める欲求と戦っていたのだ。彼女は、吸血鬼で、居たくなかったから。人間として、僕を愛したかったから。
――僕が、彼女のことを人間だと言ったから。
たぶん、そういうことだ。
自意識過剰かもしれない。でも――たしかに、そうなのだ。僕も彼女と同じくらいひねくれているから、彼女のことが、わかる。
「それに、私はあなたのこと、好きよ。放っておけないところも、優しいところも、優柔不断なところも。ただ、あなたの血も、愛しい」
 ほとんど抱きつくようにしながら、彼女は耳元でそう囁いた。
「トモ君はわたしの事、嫌い?」
「そういうわけじゃ、ないですけど」
そうだ。むしろ好きだと思う。だけど、これが本当に彼女の事を愛しているのか、それとも性の対象として求めているのか、未だに分からないのだ。お嬢様の事だってある。僕は二人に対して好意を抱いているのだ。それがどのような好意かは置いといて。
こんな宙ぶらりんな状態で、僕は彼女の求めには応じちゃいけないはずだ。
「その、好きなんだとは、思います。でも、自分でも色々よく分かってなくて、だから、その、」
「好きなら、いいじゃない。トモ君はわたしじゃ、いや?ずっと一緒にいてあげる。わたしの事しか考えられないあなたと、長い、普通の人じゃ考えられないくらい長い時間を、ずっと一緒に。それってきっと、この上なく幸せなことよ。最初のうちは二人っきりで、淫蕩にふけっていてもいい。その次は、旅行でもしましょう。旅行にも飽きたら、そうね、旅の内で気に入った場所があったら、そこに住みましょうか。ねえ?あなたを幸せにしてあげる。忘れられないくらい、気持ちよくしてあげる。だから」
 きっと、よくない事であるのはわかっていたのだ。だけど、どうしても僕は、彼女の淫靡な姿に、彼女の声色に、彼女のものか僕のものかわからない寂しさに抗えず、彼女を抱きしめ、言葉をさえぎるように、くちづけをしてしまったのだ。
 この時の僕は、他のなにもかもを忘れていた。彼女の、ミノリさんのことしか目に入っていなかった。
くちづけて、すぐに彼女が抱きしめ返してきた。柔らかい。同時に、彼女の舌が僕の舌に絡みつく。腕に力を込めて、僕も彼女を求めた。
ひとしきり求め合った後、唇を放すと、どちらからともなく、僕の座っていたベッドに倒れこんだ。僕の上に倒れこんだミノリさんが、体勢を変えて、僕の上にまたがる。腰に心地よい重みがかかる。もう一度顔を寄せ、軽くくちづけた。ワイシャツのボタンに彼女の手が伸びる。
「いいよね……?」
 字面だけ見れば確認しているようだが、その実、誘うように彼女が囁く。耳元で、彼女のかすれた息遣いが聞こえてきた。
 僕は何も答えず、ただ、彼女を受け入れた。露わになった首元に、彼女の牙が突き立てられる。彼女の牙が肌を裂き、肉を掻き分け、僕の血が、生命が、溢れだしてゆく。痛みは全く感じなかった。温かい。突き立てられた彼女の牙を通じて、彼女を抱いた体を通じて、熱が流れ込んできた。満たされてゆく。愛しい。彼女のことが、ただひたすらに、愛しい。彼女の腰に手を回し、抱き寄せた。柔らかい。抱き寄せたついでに、彼女のエプロンドレスのホックを外した。彼女の服がはだけてゆく。
「いとしい」
 彼女がいったん、血を啜るのをやめた。するとすぐに、僕の首筋から流れる血が止まる。
「貴方のことが、いとしい」
 はだけた服もそのままに、ミノリさんが、目を細め、右手でそっと、淫靡に傷口を撫でる。首筋を撫でた後、彼女は僕のチノパンのボタンを外した。張りつめていたところに余裕ができて、はち切れそうな股間の痛みが楽になった。
 もう一度、口づけを交わした。そっと、慈しむように。すぐに口を離すと、彼女は、その牙で下唇を噛み切った。血が滲み、溢れてゆく。
 彼女の、真っ赤に染まった目がこちらを見た。血の色だ。吸い込まれてゆく。彼女のことが欲しかった。もっと。
 口づけを交わす。乱暴に、互いの血を求め合った。抵抗する気なんてのは微塵も起きなかった。むしろ、僕は彼女を受け入れたかった。彼女の愛情が、欲しかった。彼女が僕の上に座り直した。
欲求の示すままに、ひたすらに彼女を求めた。抱きしめ、彼女の至る所をまさぐり、吸いついた。念入りに口づける。ありとあらゆる方法で、彼女の温かさを求めた。彼女の手が僕の体に巻きつく。
 口づけすると、彼女は僕の左肩に噛みついた。血が溢れ、彼女に奪われてゆく。彼女に与えられるのが、嬉しい。彼女を求められるのが、嬉しい。
 彼女に肩を食い破られても、やはり、痛みみたいなものは全く感じなかった。むしろ気持ちいい。
 血を吸われながら、ミノリさんの体を強く抱きしめた。彼女のふくよかな胸が僕の胸板から腹に押し付けられてつぶれる。柔らかくてあたたかい。
 満たされていた。彼女に血を与えることで。彼女の血を奪ったことで。彼女の愛情を受け入れることで。
彼女は少し顎の力を弱めると、ちろちろと、舌で傷口を愛撫した。僕も、彼女の腰を軽く撫でて、エプロンドレスの黒いスカート越しに大きなお尻を掴んで、撫でまわした後、乱暴に揉みしだいた。
どちらからともなくくちづけをする。血の味がする。彼女の血と、僕の血が、混じり合った味だ。鉄臭い味しかしなかったけれど、僕たちはお互いを執拗に、血の味がなくなるまで吸いつけあった。
長いキスを終えると、僕は彼女のスカートに手を差し込んで、直接彼女のお尻を愛撫した。左手で彼女の胸を弄ぶ。その間、彼女は腰を僕にこすり付けていた。彼女が軽く、喘ぎ声を漏らした。
彼女の胸をひとしきり味わうと、彼女の舌が僕の胸板を舐める。彼女は僕の胸板にじゃれつきながら、左手で僕の手を握り、右手で僕の下腹を撫でた。トランクスの上から僕の下腹をいやらしい手つきで弄んだ。鳥肌が立つような快感が走る。
僕も、お返しに、最初はスカートの上から、少しするとスカートの中に手を入れて直接、彼女の下腹をまさぐった。彼女の手は止まらない。
こらえきれない。
彼女の上体を無理やり引き寄せて、力任せに唇を奪う。彼女の歯、いや、牙がぶつかったけれど、そんなことお互いに気にしない。口の周りがべとべとになるまで求めあう。彼女の体をまさぐるのも忘れない。
「もう」
 限界だ。我慢できそうにない。



何も考えている余裕なんてなかった。お互いにただ、欲求に従って、相手の血を啜り、体を求めた。
僕たちの血は、僕たちは、混じり合っていた。
どれだけの時間が経ったろうか。とてつもなく長い時間が経ったような気がする。まるでえいえんを過ごしているような、いや、それは僕の願望だろうか。あまりにも甘美なために、時を進めたくないと願っているのは僕だろうか。
彼女を自分のものにしたいと、彼女の時間すら支配したいと、思っているのは僕だろうか。
緋色の憎しみがあって、翡翠色の哀しみがあって、ラベンダーの恋しさがあって、向日葵色の興奮があって、純白の渇望があって、琥珀色の幸福があって、緋色の絶望があって、ここにはきっと、僕の中にはきっと、この世のありとあらゆる感情があった。憎しみからそっと、愛しさから激しく、渇望から優しく、そしてありとあらゆるすべての感情から、彼女を求めた。



ずっと、長い時間、ぐちゃぐちゃになって、どろどろになって、何も考えずに彼女と交じり合い、溶け合った。
 彼女を求めながら、僕は、何かがわかったような気がしていた。
 いつか掴みかけた、何かの答えが、今度こそ、本当に、指の先にかかったのだ。
 解放感が、なにかに救われた実感が、何かを救い出した実感が、僕の身を吹き抜ける。喜びのままに彼女に口づける。そうだ。わかったんだ。こんなに、簡単なことだったんだ。
僕が何に包まれているのか、僕が何を抱いているのか、やっとわかった。
愛だ。
愛情だ。
この、恋しさと、愛しさと、憎悪と、興奮と、怒りと、渇望と、困惑と、喜びと、絶望と、哀しみと、幸福と、むなしさと、それからありとあらゆる感情を一つにまとめて圧力鍋で煮詰めたような、どろどろで、粘着質の、黒ずんだ感情。もし、みんなが言うような、人類が共有してしまうような愛なんてものがあるのなら、きっとそういうものだ。そんなものでいいのだ。
 愛なんて、きっと、そんなに綺麗なものじゃなくていいのだ。

僕たちはきっと、何もかもを愛にできる。
だから僕は、この感情に、今僕が、お嬢様とミノリさんに抱いている感情に、愛という名前を付けた。
 これが愛情だ。僕の。愛情は今生まれた。今僕が名付けた。

 僕にとっての愛って、こういうことだ。

 そうだ。僕が今まで、ミノリさんに抱いてきた感情は、お嬢様に抱いてきた感情は、僕の愛情だったのだ。今なら胸を張って――いや、最初から、胸を張ってよかったのだ。
僕は今まで、性愛に出会ったことがなかったんだから。
そうだ。出会ってから、名前を付ければいい。名前だけ先に知ってしまって、その名前に振り回されていたのだ。

でも、もう遅い。僕はもう、ミノリさんの血を飲んでしまった。ミノリさんの人形になる契約を交わしてしまった。
お嬢様に、ミノリさんに、どうしたいか、ようやくわかったんだ。だけど、その機会は永遠に失われてしまうだろう。ミノリさんに心酔し、彼女のことしか考えられなくなってゆくのだろう。僕の中からお嬢様が抜け落ちてゆくのだ。
おぞましかった。僕自身がどうしたいのかようやくわかった今、お嬢様の存在がなくなってゆくだろうことがおぞましかった。
お嬢様が愛しかった。彼女の気高さが、偏屈な吸血鬼が、僕の原風景が、途方もなく愛しかった。
ミノリさんが愛しかった。僕にそっと寄り添っている温かさが、途轍もなく愛しかった。

自分が何を言っているのかはわかっているつもりだ。そうだ。僕は、二股がしたいのだ。お嬢様も、ミノリさんも、そのどちらも、失いたくないのだ。
僕はこのまま、お嬢様を失ってゆくしかないのか?お嬢様が消えてゆく恐怖に、そしていつの日か何も感じなくなることへの恐怖に、怯えているしかないのか?
――いや。
そうだ。ある。一つ(・・)だけ(・・)方法(・・)が(・)、残って(・・・)いる(・・)。
そっとベッドを抜け出して、簡単に身支度を整えると、僕はドアを開けた。空気の籠った室内にいたため、ひんやりとした外気が凄く心地よかった。
「……ごめんなさい」
僕は多分、凄く、あなたに対して悪いことをしています。都合のいいことを言っているとは思うけど、それでも、僕はあなたのことが、好きです。あなたのことが、欲しい。
そうだ。今なら自信を持って言える。

僕のこの感情は、まごうことなき、僕の、僕自身の、愛だ。

そこら辺のミュージシャンから借りてきたわけでも、小説家から奪い取ってきたわけでもない、僕の愛だ。
「愛してます」
 ――あなたのこと。だけど、僕は、僕の愛情はそれだけじゃなかったから。行ってきます。
 そっと部屋を出て、玄関へと急いだ。

「もう。力づくで押さえつければよかった」


     7

 草木も眠る時間の住宅街は、不気味なまでに静かだった。まるで、僕が知らない世界に迷い込んだよう。なんかのゲームみたいだ。これから行うことを考えたら、わくわくさえしてきた。自然と歩くペースが上がる。
 国道沿いの道へ出た。規則的に並んだ街燈と、不自然なまでに明るいコンビニエンスストアの光が国道を照らしていた。国道沿いということもあって、色々な店が並んでいるけれど、そのどれもがシャッターを閉め、まるでなにか恐ろしいものから隠れるように個性を消していた。この状態じゃあ、本屋も釣具屋も大して変わりやしない。宵闇を恐れていないのは、大手飲食店とコンビニエンスストアだけだった。高い光度が眼を刺す。
 コンビニエンスストアの光がひどく無粋なものに思えて、僕はひとしきり空を見上げると、早足で住宅街へ入って行った。下弦の月が、寂しそうに佇んでいた。



見慣れた道を早足で歩いて15分。すでに生活の一部にさえなっていた、あの、不必要なまでに大きな屋敷が目に入る。曲がり角を一つ曲がって、後はまっすぐ進めば、そうだ。僕の職場、そして、彼女の、吸血鬼(愛しい人)の待つラストダンジョンに到着だ。結局ダンジョンには、吸血鬼も、お姫様も眠っていたのだ。
こんな夜中だ。門には鍵がかかっていた。そりゃそうだ。いつも9時には閉めていたもんな。しかし、そんなことは織り込み済みだ。屋敷の裏手に回り、小さな山に足を踏み入れる。山って言ったって、そんな大層なもんじゃない。丘、というほうが正しいのだろうか?とにかく、僕はそんな小山に入ると、木々の間をくぐり、腐葉土を踏み固め、子供のころと同じように、こっそりと屋敷の敷地に入ったのだ。
あとはもう、あのときとはわけが違う。勝手知ったる屋敷だった。
この屋敷、いつも、一階の物置の、少し高いところにある窓の鍵を、掛けていないのだ。少し骨が折れるけれど、ここから入れるとわかっていればやってやれないこともない。外の、庭弄りのための肥料や土を入れてある物置を開けると、僕はそこから脚立を引きずり出した。
窓の下に脚立を設置して、少し登れば、もう窓に手が届く。
脚立のてっぺんまで登って窓を開けると、窓枠に手をかけて、足から窓に突っ込んだ。確かこの下は、大きな箪笥が置いてあったはず。
箪笥の上に足を置いて、上半身を部屋の中に入れる。真っ暗だ。
携帯のライトで周囲を確認して、箪笥の上から飛び降りた。物をかき分け、物置を出る。
 廊下はもう消灯されていて、月明かりが差すだけだったけれど、今の僕にはそれで十分だ。この家のことを僕は、十分よく知ってる。どこに階段があるかも、どこに彼女がいるかも、わかる。
廊下を早足で、しかし足音を立てないように通って、階段を上った。そうしたらあとは、また長い廊下をゆけば、あの重々しい扉だ。
「何をしているのです!」
 突然、後ろから声が聞こえた。びっくりして振り返ると、そこには、寝間着姿の正樹さんが立っていた。
「トモキ君……?こんな時間に、いったい何をしに来たのですか?それも、どこかから忍び込むような真似までして」
「ええと、その」
 夜這いを掛けに来たとはまさか、言えない。
「……物盗りではないでしょうな?」
「はい、それはもちろんっ」
 正樹さんは一瞬僕の顔を睨みつけると、表情を穏やかにして、言った。
「まあ、用が何であれ、侵入者は捕えてしかるべきところへ連れて行くんですが」
ちくしょう。こんなところでしくじるなんて。だけど、僕には今しかチャンスが残されていないのだ。相手が正樹さんとはいえ、力づくでも押し通らなくてはならない。体格では負けているけれど、体力なら僕の方があるはずだ。正樹さんはなんとなく、こういうのに強そうなイメージがあるけれど、決して勝ち目のない勝負じゃない。
僕がどうにか正樹さんを張り倒すチャンスをうかがっていると、風が吹き、木の葉の擦れる音が廊下に響いたところで、正樹さんが動いた。
「いやあ、年を食うと体のあちこちが悪くなりましてねえ。今日の昼間は庭弄りなんかやっていたものでもう、今も腰が痛くて。これじゃあ物盗りと格闘なんかとてもじゃないけど不可能ですなあ」
言いながら、右手を後ろに回してわざとらしく腰を叩く。
「えっ?」
 何言ってんですかあんた。背筋がピンと伸びて僕より姿勢がいいくらいじゃないですか。
「ふう、年寄りには堪える仕事です」
 そう言い残して、正樹さんは回れ右をすると、廊下の先の闇へと消えて行った。
 拍子抜けしてしまう。
 これは、信用してもらったということでいいのだろうか?恐らく、僕が何のために来たかも、おおよそは分かっているのだろう。
 正樹さんの信頼に答えるためにも、必ず、彼女を口説き落さなければいけない。
 廊下の奥に向かって、ゆっくりと歩を進めた。



 僕は、ついに、彼女の部屋の重苦しい扉の前に立っていた。興奮が身を包む。
 今の僕は、どうしたいのか、よくわかっていた。だから、興奮に後押しされるままに、ためらわずに、扉を開いた。ノックがないのはマナー違反かもしれないけど、夜這いを掛けるのにノックする馬鹿もいないだろ。多分襖には鍵がないから、夜這いにはノックのマナーがないのだ。
部屋に入ってみると、お嬢様は、椅子に座って、真っ暗な部屋の中で、外を、月を眺めていた。月明かりに浮かぶ彼女の姿が、美しく、とても美しく、そして、初めて、可憐に見えた。
ドアを開く音に、彼女が振り返ってこちらを見た。鍵がかかってなくてよかった。鍵がかかってたら、もう少し手荒な手段に出なきゃいけなくなっていた。
「なに?何を、いまさら、こんな時間に何をしに来たの!」
「お話が、あります」
興奮で拍動が聞こえる。勢いに任せて、思いを口にする。
「僕は、あなたのことが、お嬢様のことが、シズネちゃんのことが好きです。愛してる。人が見たら不純だと思うのかもしれないけど、それでも僕は、僕のやり方で、あなたのことを、愛してるんだ」
「そんなの、嘘よ」
「嘘じゃない」
 もう、僕に迷いはなかった。
「だって私、吸血鬼なのよ?今にもあなたの血を吸うかもしれない。あなたの自由を奪うかもしれない」
「それでもいいんだ。『僕にとって自分と同種に見えれば、僕はそれを人だと思います』。ごめんなさい。自分で言ってたのに、気づくのに時間がかかった。そんなこと、別に大切じゃなかったんだ。人間が何かもわからないのに、『吸血鬼だから人間じゃない』なんて、おかしい。あなたは吸血鬼かもしれないけど、きっと、それと同時に人間なんだ」
「それだけじゃすまないでしょう!きれいごとだけじゃ、だって、私はもう、あなたを傷つけたのよ!そんなの、怖いに決まってるわ!誰だって恐れるに決まってる!そうよ、私は、吸血鬼だもの!」
「でもそれが、この傷が、あなたの愛なんだ。そうでしょ?怖くない。僕は、あなたの愛情が怖いなんてことは、絶対にないんだ」
 そうだ。それが、愛した対象を血をもって味わい、血を持って虜にするのが、きっと、彼女の、吸血鬼の愛し方。
「こんなの、こんな汚らわしい欲なんて」
「いいんです。いいんだ、もう。僕はあなたを抱きたい。これが僕の愛し方の一部だし、僕はあなたの愛なら牙を突き立てられたって嬉しい。あなたの血だって飲みたい。僕はその愛を、理解できる。本当に違う?血は、あなたの愛情行為じゃないのか?」
「それでも、そうだとしても、いやよ、怖いのよ」
「なぜ、なぜですか」
 なぜあなたはそんなに、吸血鬼のことが、自分のことが嫌いなんですか?
「愛しく思えば思うほど、血を、あなたの血を飲みたくなって、だんだん、我慢できなくなってっ」
 叫ぶようにお嬢様が続ける。これが、今まで彼女がためこんできたものなのだろう。
「血を飲んで、あなたに血を飲ませて。もう、次は歯止めが効かないわ。あのときだって、私はあなたに血を飲ませようとしていたもの。こんな欲求、愛しい人を自分の人形にしようとする体なんて、嫌いよ。自信がないの。あなたを、あなたのまま愛し続ける自信がないの。あなたを自分の思い通りに動く人形にしてしまうのが怖いの。だから駄目よ。もう帰って。これ以上は、あなたの顔を見ているだけで辛い」
「僕はまだ、あなたの答えを聞いてない。僕はあなたのことが好きだ。付き合ってほしい。僕の女になってほしい。僕を、あなたの男にしてほしい」
「そんなの、嫌いよ、あなたのことなんて、嫌い。そうよ。あなたのことなんて」
「大丈夫。ちょっとずるいかもしれないけど、僕はきっとあなたの血には縛られないから。あなたの人形にはならない。そのかわり、ずっとあなたのそばにいます。あなたの愛情を、受け入れられます。――あなたを、愛せます」
「本当に?」
 ゆっくり、足を踏み出した。彼女に向かって近づいてゆく。
「はい。――だから」
 彼女の体を抱きしめる。暖かい。背に手を回し、強く、自分の体に押し付けた。空いている手で髪を撫でる。
「愛してます。吸血鬼のあなたのことが、人間のあなたのことが愛しくてたまらない。」
「好きよ。大好き。最初に会った時、あなたの言葉を聞いて、救われたのよ。あの時あなたの言ってくれた言葉に。一緒に暮らしてすぐに、あなたに恋愛感情を抱いた。血の渇きも抱いた。いままでこんなに強く、血が欲しくなることなんてなかったのに。ほんとね?本当に、あなたは、ああ、もうわからないわ、ぜんぶ、あなたが欲しいのよ」
「僕も、シズネちゃんが欲しい。あなたの感情も、体も、血も、すべて」
 左手で彼女の手を取って、右手を頬に添え、強く口づけた。いつかと同じように、いや、あれよりももっと強く、お互いを求め合う。
「んっ……」
 名残惜しいけれど、一度、口を放す。
 今まですれ違っていた分を取り戻すために、強く、強く抱きしめた。僕の胸、ちょうど首のあたりに彼女の頭が来る。彼女が、僕の首筋に口づけた。血を吸うためではなくて、甘えるための口づけ。
 右手でお嬢様の腰をつかまえたまま、左手で彼女の頭を撫でた。月明かりを受けて妖しく光る黒い長髪を、指で櫛を作って梳いた。僕の腕の中で、彼女が身じろぎした。
「あなたの血……飲ませてくれる?」
「はい。けど僕はあなたの血も、欲しい」
 彼女のちいさくて、やわらかい掌が、僕の胸板に添えられた。
「ねえ、続きは……」
「はい」
 そう言って、僕は彼女の体を抱き上げて、ベッドに横たえた。
 ワイシャツを脱いで、上半身を露出し、彼女に覆いかぶさる。頬を撫でて、軽く口づけすると、彼女は僕の胸板を指でなぞった。くすぐったい。
お返しに、彼女の、唾液に濡れた形のいい唇を指で触ると、彼女は僕の人差し指を甘噛みした。彼女のことが愛しくてたまらない。
覆いかぶさるようにして、抱きしめた。ベッドがきしむ。
彼女が僕の左耳を甘噛みした。彼女はこういう時、甘えるタイプみたいだ。
彼女が、僕の首筋に、そっと、犬歯を当てた。確認を取っているのだ。きっと彼女も、臆病だから。
「いいですよ」
 ぞぞ、と、肉が裂けてゆく感触。首筋に二つの孔が開けられた。なかなか危険な場所のはずだ。しかし、僕は全く危機感を覚えていなかった。
彼女たちに咬まれても、なぜか、痛くないのだ。それに、傷もすぐに血が固まって、ふさがる。
蚊に血を吸われても痛くないのと似たようなものだろうか?必要が、吸血鬼をそういう風に進化させたのだろうか?
きっと、彼女たちの愛情だからだ。そういうことにしておこう。その方がきっと、素敵だ。
気持ちいい。彼女に血を吸われるのが、とてつもなく気持ちいい。まどろみに包まれているようだ。現実感がない。
彼女の舌が傷口を舐める。牙は刺さったまんまだ。肉をかき分けて、血液が牙と肉の隙間からあふれ出す。彼女が喉を鳴らした。
彼女の体を抱きしめる。そうでもしないと、ふわふわして、どこかに飛んで行ってしまいそうだった。
 
どれくらいの時間が経ったろうか、彼女が、血に濡れた犬歯を僕の首から抜いた。妖艶に、唇を軽く舐めとると、彼女は、覆いかぶさったまま、吸血の快感に呆けていた僕を力づくでひっくり返すと、僕の上に跨った。彼女の長い髪が、乱雑に、だらしなく、どこか淫らに、広がった。
彼女がその鋭くとがった犬歯を使って、自身の右腕に傷をつけた。刺し傷のような傷口から、血が溢れだし、腕を伝い指先へ溜まって、珠になって滴り、ベッドにぴんと張られたシーツに、赤い染みを作った。
僕の口元に右手が差しだされた。こころなしか、彼女の手が震えているような気がする。
差し出された手に、掌に一瞬だけ口づけし、人差し指に吸い付いた。
「んっ」
 彼女が喘いで、唾を飲み込んだ。
彼女の人差し指をねぶり、傷口から流れてくる血を舐めとる。すぐに傷口が固まり始め、血が流れなくなるので、終いには、傷口に直接口をつけて、彼女の血を啜った。
体中に、彼女の血が染み込んでゆく。吸血鬼っていうより、どっちかって言ったら、クイーンメイブかもしれない。たしかな快楽の予感に昂りを感じながら、そんなことを呆然と考えた。

こうして、僕は、彼女のものになった。


     8

「ねえ?これはどういうことなのかしら?」
「いえ、そのですね。ええと、お嬢様に説明した通りでございます」
「『血に縛られない』って言ってたけど、こういうことなんてね……うふふ、なによ、それこそ永遠の孤独から救われた気分でいたら、思わぬ結末だったわ……。何か申し開きはないわけ?」
「これがその、僕の愛情でしてその、僕はお嬢様もミノリさんも等しく愛しているといいますか、どちらも僕には必要といいますか」
 あの後、全てが落ち着いて、僕が晴れて屋敷に再雇用された後、さすがに隠してはおけないし、そもそも隠しておくつもりもなかったので、僕はお嬢様とミノリちゃんに全てを話すことにした。その結果がこの吊るし上げである。正座を強要され、朝っぱらからかれこれ三十分近くも説教の真似事が続いていた。
お嬢様が、なぜ僕に血の縛りが効かないかを疑問に思い僕に尋ねてきたので、これはいい機会だと思い説明したわけであるけれど、今になって冷静に考えれば、どう考えたってこうなることは分かっていた。ある程度は覚悟をしていたけれど、まさか浮気を問い詰められるのがこんなにきついとは思ってもいなかった。
「吸血鬼二人の血を入れれば人形にはならない?ああそうよ、そうでしょうよ!どっちの命令に従えばいいかわからなくなるからね!」
――そう、僕は、ミノリさんの血を飲んだ後、体に回りきる前にお嬢様の血を飲めば。命令系統が混在することになって、少なくとも、お嬢様の命令に従うだけのお嬢様の人形にはならないのではないかと思い、それを実行したのだ。体への影響とかはそんなに考えていなかった。我ながら恐ろしいことをしたものである。
「まあまあ、お嬢様もその辺でいいじゃないですか。私はトモ君が居れば構いませんから。でも、そうね、私に断りもなくこんなことをしたのはちょっと駄目ね。お妾さんを増やすぐらい私は許すけど、それは私も知ってなきゃ」
「……誰が妾ですって?あなたちょっと、雇用主に対する態度ってのを考え直したほうがいいんじゃないかしら?」
「あら、夫婦関係にまで口を出すのは上司の領分じゃないんじゃないかしら。もちろん妾のすることでもないですよ?それにクビになったら、少し予定より早いけどトモ君のおうちにお世話になるしかないですねえ」
「この狸が……!」
「どちらかというと狐を自負してます。コーン」
 ミノリさんが手で耳を作って狐の鳴きまねをする。かわいい。
「ねえ、あなた、この女にはっきり、どっちが妾か突きつけてやりなさいよ!」
「いえ、あの、ですから、僕としてはそのですね、両方とも等しくですね」
「なに?あなた本気でそんなこと言ってるの?この節操なし!あんたは今日一日ご飯抜きよ!反省しなさい!」
「そうですねえ、ちょっと今のは良くなかったかもしれませんねえ。ということでトモ君、今日一日ご飯食べちゃダメよ?」
「いや、そんな殺生な!冗談でしょう?」
 ご飯抜きなんて最近は漫画でも言わないだろ!
「冗談なんか」
「言いません。うふふ」
 なんだよあんたら仲いいんじゃないか。
「お嬢様、そろそろ朝食を召し上がらないと、学校に遅刻してしまいます」
「あらそう、いただきましょう。今行くわ」
「私もそろそろお腹が空いてきましたねえ」
 正座したままの僕を置いて、みんなして食堂に向かっていった。もしかして本当に僕の食事は抜きなんだろうか。
「ああ、ちょっと待ってくださいよ!僕も……って気持ち悪っ」
 なんだこれ。お腹が減ってるのに、まるで胃袋に限界以上に詰め込んだときのように気持ちが悪い。
「お腹空いてるのに!食べたくない!うわぁぁぁぁぁ!」
 なんだこの責め苦。
 どうやら彼女たち二人の意見が一致した時だけ、体が彼女たちに従ってしまうようだ。
それにしても僕は、一日このままなのだろうか。お腹が空いてるのに満腹で気持ち悪いって、これ、すごく気持ち悪いんだけど。



 僕がそのまま、二十分ほど居間で悶え苦しんでいると、食事を終え、軽く身支度を整えたお嬢様がやってきた。
 海明の制服を着た彼女。なんだか懐かしい。
「ほら、早く行きましょうよ!あなたがはっきりしないから遅くなっちゃったじゃない!」
お嬢様に引っ張られ、居間を出て、目の前の玄関で学校指定の革靴に足を突っ込み、屋外に飛び出した。春の陽気というには少しばかり乱暴なくらいに、陽が照り付けていた。もうそろそろ衣替えだったろうか。目前に迫る梅雨を越えれば、そう、夏が来るのだ。
愛しい女性たちと過ごす新しい季節が、楽しみで仕方がなかった。

〈了)
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琥珀の銘:4・5


     4

 屋敷に戻って、一通りの事を済ませて部屋に戻ると、急に疲れが押し寄せてきた。そういえば僕は今日ろくに寝ていなかったっけ。そして僕は明日もミノリさんと出かけなくてはならないのだ。
そう考えると、なんだか気が重い。しかし、今更行かないわけにも行かないし、なんだかんだ今日だって、開き直ってみれば楽しくもあった。
さっさと寝ちまおう。それがいい。
そう心に決めて、寝る仕度を始める。とは言っても、歯は磨いたし、部屋に散らかすほどの物があるわけでもなし、課題があるわけでもない(あっても今日はやらないだろう)。明日の服を決めておくぐらいだ。服か。そういえば今日買ってもらった服はまだ袋に入りっぱなしじゃないか。明日着てゆくのはさすがにまずいだろうが、タグを切ってタンスにしまうくらいのことはしておこう。
はさみを手に取り、大量の服のタグを切り離す。値札に表示された数字にすこし怖気づきながら、片っ端からタグを取り外し、畳んでゆく。
「痛っ」
ポリプロピレンのワイヤーに引っ掛けた指先に痛みが走った。見ると、朝作った傷口が開いている。そういえば、怪我なんてしてたっけか。
痛みとともにゆっくりと、血が滲み出してくる。傷口に血の滴が膨れ上がり、こぼれそうになって、慌てて僕は指を口に含んだ。
「絆創膏は……もって来たっけか?」
はて、僕は絆創膏をどこにしていただろう。実家にいたときはいつも、救急箱に入れていたはずなのだが。
「……救急箱?」
 そう言えばそんな物持って来てないぞ、僕は。屋敷の物を使わせてもらえばいいだろうと思って置いてきたはずだ。とはいっても、この屋敷のどこに救急箱が置いてあるかはよく覚えていないのだけど。ミノリさんに傷の手当てをしてもらったことがあったはずだけど、あれはどこから取ってきたのだったか。覚えていない。仕方ない、とりあえず一階に下りて探すしかないか。
とりあえずティッシュを傷のある人差し指に巻きつけ、部屋を出た。
 今は十一時を少し回ったところだったろうか、温かくなり始めたとはいえ、夜はまだ少し寒い。人気のない廊下に冷たい空気に、どこか心細さを感じた。こころもち足早に階段を降りる。とりあえず、居間に行ってみれば良いだろうか。
 一階に降りて廊下を居間の方に進むと、居間のドアから光が漏れていた。まだ誰かいるみたいだ。正樹さん辺りがいてくれると助かるんだけど。救急箱の位置なんかは完璧に把握しているだろうし。
「すいませーん」
 とりあえず居間に入る。そこにいたのは、お嬢様だった。なにをするでもなく、椅子に座っている。一応文庫本を開いてはいるけれど、その視線はまったく活字には向いておらず、ただ何もない虚空を、いやに鋭い目つきで睨み付けている。
「ああ……どうかした?」
 僕の声で我に返ったように、お嬢様の視線が現実を捉え、僕の方を見た。目つきは幾分かやわらかくなっていた。
「いえ……救急箱ってどこにありますかね」
「救急箱?そこの戸棚の中だと思うけれど……どうしたの?」
「いえ。ちょっと。怪我をしてしまいまして、絆創膏を」
「けが?ひどいの?ちょっと見せなさいよ」
「いえ、そんなにひどくはないんですけど」
 彼女に近づき、軽く左手を差し出す。巻きつけたティッシュに血がにじんでいた。
「血が出てる」
彼女が、僕の左手に両手を添えた。巻きつけたティッシュをそっと剥がす。なにをしようって言うんだ?わざわざ傷口なんて見ようとするものか?
それも、別に特別な傷ってわけじゃない。どこにでもある、ありふれた切り傷だ。
 ティッシュが外れ、傷口があらわになった。血に濡れたティッシュに包まれ蒸れていた皮膚が外気に晒され、気化に熱を奪われる。
「血……切り傷ね」
お嬢様が、僕の人差し指を口に含んだ。
お嬢様の小さな舌が僕の人差し指をねぶり、傷口に滴る血を吸いとってゆく。
僕は、未だに何がなんだかわかっていなかった。自分が何をされているのか、彼女が何をしているのか。
 胸のうちのなにもかもを忘れて呆けている僕を、痛みが現実に引き戻した。
 彼女の舌が傷口をつつき、舌先をねじ込もうとしているのだ。まるで、僕の指が彼女の舌に犯されているよう。開いた傷口からさらに血が流れだし、彼女はまたそれを貪欲に舐めとる。
 血を啜る音と、壁掛け時計の秒針の音だけがリビングに響いていた。
 これは一体、なんなのだろう。
 ラブコメなんかによくある、甘ったるくて胸焼けがするような治療だろうか?
 いや、違う。そんなものじゃない。素人が治療で傷口を開くものか。
 じゃあ、なんだ?この行為はなんだ?
 そうして、僕が必死に現実を咀嚼している間にも、彼女の舌は僕を犯してゆく。
「ん……あっ……ん……」
 彼女の唾液と、少しの僕の血液による水音の合間に、彼女が息継ぎをする。お嬢様は間髪入れずに、また僕の指をねぶる。
 ずきずきと、規則的に僕の人差し指から伝えられる痛み。
 なにはどうあれ、ひとまずこの状況を脱しようと、僕より一回り以上背丈の小さい彼女を見下ろした。
 なまめかしく光を反射する彼女の濡れ烏が乱れ、僕の指へ吸い付いている。
 彼女が僕を見上げる。
 恐ろしかった。
 お互いに素手でいた場合、僕が彼女に傷つけられることは恐らくない。性差による、どうしようもない力の差があるからだ。だからどうこうじゃなく、そこには現実として差が存在している。
 組みついているような現状、さらにそれは確かに僕の優位を作る。
 だというのに、僕は、彼女に恐怖を感じた。僕の自由にならない心の奥底、安っぽく言うなら本能とでも言うべき物が、おぞましいものや理解できないものに対する恐怖、また生理的嫌悪感ではなく、命の危機を感じたのだ。
 ゾッとした。睾丸が縮み上がった。
 もうそれだけで、僕の体は動けない。蛇に睨まれた蛙とはこういう事を言うのだ。恐怖に縮み上がる中でも、彼女がとびきり美しく見えるのがなんだかシュールだった。
 彼女は僕とすこしの間見つめあったあと、唐突に僕の人差し指を解放した。
濡れた指が外気に触れて、少し寒いように思えた。指から始まって、腕にのぼり、体全体に、寒気が広がってゆく。そしてそれは僕の意識にまで切なさに形を変えてたどり着いた。   寒いんだ。僕という生き物は、この場所は、僕という意識は寒い。
 熱源が欲しい。なにか、温かいものが。僕を、僕そのものを暖められるものが欲しい。これは欲望だ。このときの僕にあったものは寒さであって、同時に欲望。
 そうだ。きっと寒さだ。僕は凍えて動けないでいたのだ、なぜか。理由なんていい。ただ僕は、きっと、凍り付いて動けなかった。彼女の前で、何かに凍り付いて動けなかったのだ。僕が感じていたのは寒さ。
 僕は熱を探した。
 僕が感じている冷たさを、切なさを、誰かにどうにかして欲しかった。
 お嬢様を見た。きっと僕は、すがるような目つきをしていた。それとも、忠犬の飼い主に餌をねだる目つきだろうか。ともかくこのとき、契約なんて者は関係なくって、圧倒的に彼女が強者であって、僕の全ては彼女の元にあったのだ。
 彼女は、その長く、零れ落ちるようなやわらかさを持つその髪の毛を、ふわ、とリビングの虚空に揺らめかせ、僕に一歩を踏み出した。彼女の右手が僕の胸板に当てられる。
 そして、左手を僕の顎に添えると、背伸びして、僕の唇に乱暴にくちづけた。
 熱だ。最も単純で恐らくこの宇宙、セカイ、ともかく僕らの想像できるほぼ全ての物を支配するだろう法則。熱の均一化。ただそれだけ。
その単純な図式を持って、彼女の熱が、冷えきった僕の体へ、意識へ、そして僕の自由にできない何かに流れ込んでくる。
彼女は、深く、乱暴にくちづけたそのままで、僕に体重をかけた。
何にも逆らうことなく、ただ引かれるままにリビングの床に倒れる僕達。
倒れた衝撃でくちづけた二つが離れた。名残を惜しむようにつながる唾液の銀線が蛍光灯に輝く。
頭を打った気がする。しかし、ろくに痛みを感じないので、もしかしたら打っていないかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいんだ。
ぼくたちは、すぐに、お互いの唇を貪るようにもう一度くちづけた。
作法も何も無視した、がむしゃらな口づけに、歯がぶつかった。だけど、そんなことはどうでもいい。
熱だ。僕にはとにかく熱が必要だった。ご主人様からもらえる熱が。
 お互いの舌をがむしゃらに吸い付け合った。
シャンプーの臭いと、それから多分、僕を狂わせる月かなにかの香りがする。
僕には情報が入ってくるだけ。いまここで、僕の行為に、僕の意思は介在していない。
お嬢様の香りに、それからあとなにか、魔性を秘めた何かに。僕の体は突き動かされてゆく。
絡めたままの口腔に、鉄の味がした。血の味、僕の血だろうか?
そういえば、舌がずきずきしているような気がする。けれど僕は、傷みを感じていない。
何度目だろうか、お嬢様が僕の舌に、もう一度深く吸い付く。力任せに傷口をえぐり、慈しむようにねぶり、自分勝手に吸い取る。
いつの間にかお嬢様は、仰向けに倒れた僕に馬乗りになっていた。性交の体位にも似たそれは、そんなやさしいものではなくて、まごうことなきマウントポジション。彼女の長い黒髪も相まって、鳥が屍骸をつついているよう。そんなことしなくたって、僕の体は言う事を聞きゃあしないのに。
もう一度だけ、僕と深くくちづけを交わして、彼女の小さな、唾液と滲んだ血液に濡れた、その小さな唇が僕の口から離れた。唾液が、血液が、名残惜しいのか僕と彼女に、蛍光灯に光る薄紅の橋を掛け、つなぎ続けた。
まだだ。まだ。そんなのってないだろ。僕はまだ足りないんだ。どれだけ必要なのかは知らないけれど、僕はまだ足りない。
彼女に腰を押さえつけられたまま、僕はまた、彼女にねだる。彼女を見る。彼女を見つめる。
彼女は、その、紅い瞳をこちらにむけた。彼女の目は確かに、紅かった。琥珀色の瞳が紅く染まっている。
当然のことに思えた。彼女の瞳は赤く染まる。僕はそんなことに疑問も抱かないまま、
彼女を求めた。
彼女が僕に顔を近づける。額に軽くくちづけて、もう一度互いの唇を合わせた。彼女のちいさくて、柔らかい右の手のひらが僕と彼女の下腹を一緒くたにまさぐる。左手は僕の顔に添えられている。
壁掛け時計の音がひどく耳障りに感じた。ここにあるのは、僕と彼女の音だけでよかった。口腔の交わる濡れた音、衣擦れの音、そしてかすれた吐息。
僕の体は、未だ自動的であった。僕の意思とは関係もなく(といっても、体が自由であっても僕は同じ事をしただろう)、彼女に深く唇を合わせる。両手は頼りなく彼女の腰に添えてある。
彼女が少し身じろぎをして、少しだけうしろに下がった。彼女は左手で髪を少し掻き分けて、再度吸い付く。
なにか大きな音が聞こえた気がする。なんだろう。2階のほうだろうか。でも、何があったって、今の僕にはどうすることも出来ないし、何より関係がないのだ。勝手にしてろ。
彼女の右手が下腹を離れて、リビングに倒れたままの僕の左肩に添えられた。
彼女が軽く腰を浮かし、くちづけをやめた。離れる唇。
少し腰を浮かしたまま、彼女はその紅く染まった双眸をもって僕を見下ろした。瞼が一度だけ降りて、すぐに開いた。長い睫毛がしっとりと、濡れたようにつやめいている。
そのまま、彼女はそっと僕の唇に触れるだけのくちづけをした。
わかっていた。これで終わりではないことはもう、わかっていた。だから僕は、慌てることもなくそっと、彼女の腰に手を添えたまま、彼女を受け入れた。
彼女の左手が、僕の左ほほに添えられた。そのまま、彼女は、寝巻きの首周りから覗く僕の肩にくちづけた。首の真横。
そして彼女は、その小さな口を少しだけ開いて、僕の肩に噛みついた。最初はやわらかく、触れるような甘噛み。そしてそのまま少しずつ力がかかってゆく。そしてあるとき、彼女の尖った犬歯が、僕の皮膚を食い破り、深く沈み、前歯に肩がぶつかったところで止まった。そのまま彼女は動かない。舌だけを動かして、僕の肩から流れ出る血液を舐め取り、吸い上げ、飲み込んでゆく。
この期に及んでまで僕は、時計の音が気に障っていた。いらないのに。ここには、僕と彼女だけでいい。
自分が何をされているかは、正確に理解しているつもりだった。血を、吸われているのだ。彼女に。傷口は恐らくそれなりに深く、日常生活では見ることもないような多量の血液が流れ出しているだろう。動脈に近いし、もしかしたら僕の命にかかわるのかもしれない。同時に、たいしたこともない傷かもしれなかったが。
でもそんなことはそのとき、関係なかったのだ。命の危険かもしれなかったけれど、そんなことは関係なかった。べつに、僕がどうなろうとよかったのだ、おそらく、僕の自由にならない部分で、僕は、僕がどうなろうともよかった。お嬢様に血を啜られていたかったのだ。一つだけ気がかりがあったとしたら、彼女の顔が僕の血で汚れていることだった。
体は動かない。動かす気もない。ただそのまま受け入れた。
今度は先ほどよりも大きな音がした。さっきよりも近い。ああ。お嬢様がまだ、僕の肩にくちづけている。なんだろう。僕はお嬢様に、何かの感情を抱いている。名前のない感情。僕はこれの名前を知らない。
受け入れる。お嬢様を、受け入れる。両手を少しだけ動かして、右手をお嬢様の腰に回した。続いて左手をお嬢様の頭に回す。軽く、本当に軽く、お嬢様の邪魔にならないくらい軽く、力を込めた。
ああ、まただ。また何かうるさい音がした。邪魔をするなよ。もうすぐ僕は、どうにか、どうにかなってしまうんだ。どうにかなれるんだ。
よく分からない感情が身を占める。なんだったろうか、これは。憎しみと呼べる気がする。慈しみと呼んだのだろうか。悲しみ?嫉み?好意?好奇心と言ったのだったか。それとも、嫌悪だったか。敵意?興奮?渇望しているのか?切ないのだろうか!恋しいのだろうか!それとも!ああ、なんだ。この感情はなんだろう。甘いような、痛いような、暗いような、暗いような、それとも純白の、紫の、この感情はなんと言えばいいのだったろうか!僕は知らない。なんと呼べばいい。僕は今、何に身を包まれている。何を持っている。僕はこれを、なんと呼んでもいい。ネリリでもいいし、キルルでもいいし、ハララでもいい!ああ、どうしよう。だからこそ僕は、これを慎重に、優しく呼んであげなければいけない。僕が何に包まれているのか、間違えないように、確かに決めなければいけない。
ああ。今度の音はもっとうるさい。うるさいな、こっちは今忙しいんだ、僕と彼女以外が音を立てるのは許さない。
だめだ。集中できない。候補がまったく浮かばない。音を立てやがったせいだろうか。ちくしょう。こっちは真剣だって言うのに。
虚ろな目でお嬢様を見た。すると、彼女は、僕の肩にくちづけたまま、鈍い金属音とともに、僕の上に崩れ落ちた。
見上げると、ミノリさんが見える。彼女がどうしてここにいる?
少しだけ、体に自由が戻っていた。同時に、思考がクリアになってゆく。今まで考えていたことが霧散してゆく。そこには、何か大切なことがあった気がするのに。僕は何を考えていた?ああ、でも、今はそんなことじゃない。
僕は何をしていた?
簡単だ。彼女に、お嬢様に、シズネちゃんに、血を吸われていたのだ。最初は指の切り傷から、次に口づけを経て、最後に僕の肩口から。そういえば僕の肩はどうなっている?あわてて首を回した。稼動域の限界に首がきしむ。
二つの紅い点から、血が、ゆっくりと流れ出していた。思い出したように、一瞬、痛みが走る。とりあえず消毒して止血しなけりゃあ。ああ、そういえば僕は、救急箱を探しに来たんだっけ。救急箱、どこだ?ミノリさんだ。そこにいるじゃないか、聞けばいい。そう言えばミノリさんはなんでここにいるんだろう?いつここに来たんだ?
身を起こし、口を開こうと思ったところで、僕の意識は、張り詰めた糸のようにぷつりと途切れた。
あれ、そういえば、いつだったか、僕はミノリさんにも同じ事をされたような気がする――。





     5

気が付くと、自分の部屋にいた。僕は自分のベッドで横になっていて、ベッドの脇の椅子にはミノリさんが座っていた。
「ミノリさん……?」
「はい。起きたのね?体調はどう?」
「いえ、特におかしなところは……」
「そう、よかった」
いつもどおりのやわらかい口調で、あまり表情を変えずに彼女は言った。おそらく、僕の体調に異常がないことがわかっていたのだろう。
「とりあえず、お水飲む?」
起き抜けで、まだ少しぼーっとしているし、目を覚ましたほうがいいかもしれない。
「いただきます」
上体を起こし、ベッドのヘッドボードにもたれかかる。水差しからコップに注がれた水を、ミノリさんから受け取り、半分ほど一息に飲んだ。
「昨日のこと、覚えてますか?」
昨日のこと?そういえば僕はなんでミノリさんに看病されているんだっけ?風邪を引いたわけでもないのに。
「そうだ、昨日の夜、シズネちゃんに……」
血を、吸われたのだ。
自分でもなんだか信じられなくなってきた。何だよ、血を吸われたって。吸血鬼じゃあるまいし。彼女は日光も流水も、にんにくも平気だったぞ。
「血を、吸われたのよね」
信じられなくなって、首筋に手をやると、そこにはかさぶたが二つ、シズネちゃんのの犬歯の間隔に出来ていた。
「でも、なんで……」
そうだ。血を吸うなんて、普通じゃない。まっとうな行動じゃない。猟奇性すら孕んでいる。
「説明、いるよね?」
ミノリさんの口調がいつもどおりなのが、唯一の支えに思えた。
シズネちゃんは今どうしているのだろうか。無性に彼女の顔を見たくなったが、とりあえず今は、ミノリさんの話を聞くことに決めた。
「お願いします」
ミノリさんは、一瞬だけ窓の方を向き、ガラス越しに差す陽光に顔をしかめたあと、ベッドの脇の学習机の椅子に横から腰掛けた。
「わかりました。私がわかる範囲で説明しますけれど、もしかしたら、トモキ君は私の言う事を信じてくれないかもしれません」
ミノリさんが、どこか寂しいような口調で語り始めた。敬語がなんだか耳についた。
「ところでトモキ君、キョンシーって聞いたことありますか?」
キョンシー?あの、中国の?
「そりゃ、知ってますけど……中国の妖怪ですよね。顔にお札が張ってあるやつ」
知ってるけど、それがなんだって言うんだ?
「ええ。じゃあ、ノスフェラトゥは?」
「名前だけは」
昔やったゲームで見た覚えがある。
「ナハツェーラー」
「わかりません」
「まあ、有名どころはこんなところでしょうか。最近はこういうのが出てくる娯楽作品が多いから、みんな知ってたりするんですよね」
ご多分に漏れず、僕もゲームで知っていたクチだが、怪物の名前なんか、知っているとどうなるって言うんだ?二十歳になるまで覚えてるといけないとでも言うつもりか?僕に何の関係がある?
「それで、なんなんです?今のは」
「吸血鬼です。後の二つはヨーロッパですね。ちょっと調べるとわかりますけど、ヨーロッパを中心にマレーシアや中国、日本にも似たような話があったりします。日本のは血じゃなくて寝息だったりしますけど」
「吸血鬼?」
なんで今吸血鬼の話が出てくる?まさかそんな、さっき考えていたような、くだらないオチじゃないだろうな?
「ええ。吸血鬼です。ところで、インターネットもない、航路も確立されてない時代に、なぜ吸血鬼の話は広まっているのでしょう。遠く海を越えてマレーシアまで、日本まで」
「別に珍しい話じゃないでしょう。どこの童話だってなぜか末っ子が成功するし、同じ時期に似たような発明が成されていることだってある。どこの人間も似たようなことやってるってだけのことじゃないんですか」
「発明はともかく、童話、物語に関してはこう考えることもできませんか?」
外で車のクラクションが響いた。ふと、喉の渇きを感じて、コップに残った水を飲み干した。上体を傾け、手を伸ばし、コップを机の上に置くと、ミノリさんが話を続けた。
「事実そういうものなのだ、と」
「まさか、馬鹿げてます」
考える間もなく、否定が口をついた。そりゃそうだ。子供の妄想もいいところだ。
「そう思うカもしれませんね。けど、『事実、そういうものだった』んです」
「どういうことです?お嬢様が吸血鬼だって言いたいんですか?それこそ馬鹿げてる。ミノリさんの言い分を信じたって、彼女は日光を浴びたってなんともないし、にんにくだって平気で食べるし、十字架型のアクセサリーをしてたことだってある。もし、百歩譲って、吸血鬼がいたとしても、明らかに彼女はそうじゃない。まさか杭を心臓に打てとでも?」
苛立ちが募る。僕は馬鹿にされているんじゃないだろうか?敬語まで使って。
「そうですね。そんな反応をするのも、無理はないと思います」
ミノリさんが立ち上がり、いったん話を区切った。彼女はそのまま窓へと寄って行き、ガラス窓を明けてカーテンを閉めた。
「寒くない?空気がこもってるから、少し換気をしましょう」
「はい」
窓から振り返ると、彼女はそのまま口を開いた。さっきと変わらない、なんだかつまらない口調で。
「一度、最後まで話を聞いてください。何を思っても、最後まで。終わったあとに、わかる範囲ですが疑問には答えます」
 ――いいかげん、彼女も異常だ。子供でもわかりそうな与太話を、いつまで続けるのだろうか。何が彼女をそうさせている?彼女をこうまでさせるなにかが、彼女の話を聞けばわかるのか?
「はい」
「はじめ、吸血鬼は、病気のようなものだったのではないかと考えられています」
誰に?どこのどいつがそんな与太話を自慢気にくっちゃべってんだ?少なくとも僕は、そんな話、聞いた事がない。
「病気にかかった人間は、流水を怖がり、日光を避け、身体能力が上がり、寿命が長くなり、牙が生え、暴力的になり、人を誘惑するため魔性の魅力を手に入れ、そして、少しすると急に――血が、魅力的に思えてくる。そして、満月の日にはさらにそれらの特徴がが顕著。力はより強く、不死性に近い生命力を手に入れ、血を求める衝動は強くなる。抑えがたいほどに。そして、人ならざる魅力を持って人間を惹きつける。さながら誘蛾灯のように」
荒唐無稽だ。そんな病気――。
「――狂犬病?」
そうだ。最初の二つは、伝え聞く狂犬病の症状に似ている。
「似たものかもしれませんね。感染源は蝙蝠だったのでは、とも言われています。ジョークの一種ですが。まあともかく、そんな病気があった。当時の文化レベルでは、この病気にかかった人間を、呪いや怪物が化けて成り代わっているものと考えても仕方がなかったでしょう。そしてその病気が発祥すると吸血鬼として扱われ、吸血鬼は人間の敵として扱われる。それはそうです。吸血鬼は『人間』の血を啜り、自身の血をもって『吸血鬼』の同胞を殖やすのだから」
なんとなく、すわりが悪いような気がして、少し体勢を直した。腰の下に敷いていた枕を抜き取り、太ももの上に乗せた。
「そして、長い間、吸血鬼は人間の敵として迫害を受けます――まあ、今でももちろん、吸血鬼にいい目を向ける人間はいないし、迫害も受けますけど。しかし、ある時を境に、吸血鬼はその数を減らし、ほとんど現れなくなります。近代化による衛生環境の向上も要因の一つでしょう。また、吸血鬼を人間が恐れ、対策が広まっているのも原因かもしれません。だけど」
開いた窓から風が吹き込み、カーテンが流れた。風にさえぎられるようにして、ミノリさんの言葉が止まった。風が止み、カーテンが落ち着くと、彼女はまた、滔々と、そして無味乾燥に話を続けた。彼女の柔らかい表情が少し不気味で、なんとなく癪に障った。
「だけど、ある致命的な出来事があった。変異種の発生です。長い時を経て、病原体が変異を起こしたのか。何かをきっかけにして人間に適合したのかもしれません。変異した吸血鬼は、日光を恐れず、流水を苦ともせず、人格も変わらず、血を欲した。変異した病原体は原種よりも生命力が強く、衛生環境が良くなって原種がその数を減らしても、変異種はものともしなかった。そして変異種は、原種を駆逐して行きました。理性を保った吸血鬼たちは、身を隠すようになる。そして吸血鬼はどこからともなく集まり、普通の人間としてひっそりと、人間社会に隠れ、独自のコミュニティを作り暮らして行きました。ずっと――今に至るまで。まあ、たまにやんちゃした吸血鬼もいたみたいですけど。カーミラみたいな感じですね」
くだらない。まるでどこかのホラー映画のようだ。それとも、2000年近辺ぐらいに量産されたホラーゲームだろうか。そのうちのいくつかはよく覚えている。人体に変異を起こすウイルスがアウトブレイクしたり、ミトコンドリアがどうのってやつだ。なんだ、そっくりじゃないか。
「彼らは吸血鬼同士での交配を続け、その結果、身体能力は高く、そして身体的特徴は強くなっていきました。競馬のインブリードみたいなものでしょうか。血縁ではないのでまたちょっと違いますけど」
「まあともかく、今の彼らは、牙――犬歯が鋭く、その肌は白く魅力的で、そして、瞳の色が薄く、充血するとまるで赤い瞳――普段の色は、琥珀色。身体能力は人より高く――といっても、アスリートと比べたら負けてしまう程度ですが――、同時に代謝も高いため、そうそう病気にはかからない。そして、その血を人間が飲んだら――その人は、吸血鬼と同じくらいに寿命が延びて、吸血鬼に心酔する。病原体の感染力は弱まってるみたいですね。いや、もう『病原体』としては終わっているに等しい。遺伝でしか正しく感染しないこの病は、もはや『遺伝子』に組み込まれているようなものかもしれない。長い歴史の中で、遺伝子導入みたいなことでも起こったんでしょうかね。まあ、ともかく、既に、『吸血鬼』は病気ではない。そういう『生き物』なんです」
 一瞬、彼女は、寂しそうな顔をしたような気がした。しかしすぐに、先ほどと変わらぬ調子で、次の句を継いだ。
「まあ、それはともかく、今言ったことの中に、いくつか、思い当たることがあるんじゃないですか?」
琥珀色の瞳。そうだ。彼女は、琥珀色の瞳をしている。彼女の目が赤く見えたこともある。でも。
それは彼女が、人間じゃないって認めることだ。
彼女が人間で無ければいけない道理は無いし、人間であることが正しいこととであるといいきるには僕には信仰か純粋さか何かが足りていないのだけど、彼女を、お嬢様を、人間ではないと、僕とは違う生き物で、『吸血鬼』だと、断じることが、怖かった。僕は臆病者なのだ。この一歩がなにか決定的であるような気がして、とても踏み出せなかった。
「瞳に血管はないはずですよ。ほら、やっぱり作り話じゃ――」
「瞳に酸素が足りないと、新しく血管ができることがあるようです。瞳に血管が出来て眼圧が上がって病気になったりもするようですけど、吸血鬼は大丈夫だったみたいですね。時間をかけて適応したのか、それとも。まあともかく、不思議なことじゃありません。人間の一生でも起こることなんですから、長い時間をかけて瞳に血管が出来ても。彼女の犬歯が鋭いのは、肩の傷口を見ればわかりますね。普通の人間が、犬歯だけの傷を残せるはずがない。食いちぎるならまだしも。そしてトモキ君はおそらく彼女に魅力を感じていた。並々ならぬ、強く、抗い難い魅力を」
そうだ。その通りだ。全て、憎ったらしくなるくらいに、その通りだ。
「ミノリさんが、今の僕の状況を見てからこんな話を作ったのかもしれない」
「こんな壮大な、いえ、荒唐無稽な話を?」
「そうです。きっとホラー映画かなにかを基にして」
「そうかもしれませんけど、そうだとしても、トモキ君の肩口の傷だけはそこにあるでしょう?それは普通の人が残せる傷口ですか?それにあなたは、多分その傷に痛みを感じていない。むしろ愛しくすらあるかもしれない」
いとしさ。そうかもしれない。多分僕は、この傷に対して、悪い感情を抱いていない。普段は、つまらない切り傷に大して不便さを感じるほどなのに。だって、痛くないのだ。先ほどから体を動かしても、なんともない。未だ傷口はふさがっていないのに。
認めなければいけないのか。こんな、荒唐無稽な話を。お嬢様が、吸血鬼だって事を。彼女は、僕と致命的に違う存在だって事を。
いや。わかってたのだ。本当は。ミノリさんの話を聞いて、どこか納得している自分がいた。
「そう、かもしれません」
「そう。あなたは……いえ、トモ君は、どうする?」
どうする?何に対して?僕は何が出来て、何をするべきで、何をしたい?
「どうする、って?何に対してですか?僕はなにかしたほうがいいんですか?」
「トモ君、血は飲んだ?」
血?
「その、お嬢様の口に残ってた、僕の血なら」
「なら、大丈夫。何かできるわ。何もしないでもいいし、何かしてもいい」
「血が何か?」
「人間が吸血鬼の血を飲んだら、もう逃れられない。その人は吸血鬼の虜。逆らうなんて考えられない。全てはその吸血鬼のため」
「お嬢様は」
 答えを聞くのがなんとなく恐ろしくて、一瞬言葉に詰まった。
「お嬢様は、どうしているんですか」
「部屋に篭ってます」
「そうですか」
 彼女は何を考えているのだろう。飢えだろうか。渇きだろうか。血を欲しているのか。それとも。
「とりあえず、朝ご飯を食べます」
「じゃあ、すぐに用意しますね?」
「お願いします」
「約束どおり、朝ご飯が終わったらデートしましょう。少し遅くなっちゃったけど」
「そうですね。お洒落で美味しいお店、調べてあるんですよ。お昼、パスタでいいですか?」
 今は何も考えられそうになかった。だから、とにかく、体を動かすことにした。それはただの逃避だったかもしれないけれど。



バターをたっぷり塗ったトーストに目玉焼き、それにサラダという、いつもどおりの朝食を取って、身支度をして、僕達は街に出た。朝食の時に正樹さんと顔を合わせたけれど、どんな顔をすればいいのかわからない僕に対し、正樹さんはいつも以上に優しい表情だった。昨日、何があったかも知っているだろうに、どういうことなのだろうか。それとも、僕は当事者であるから、物事を大きく考えすぎているだけで、その実、たいしたこともない話なのかもしれない。ミノリさんだって終始落ち着いていたし。
そういえばミノリさんは、なんであんなことを知っていたんだ?僕より長く働いているから?でも、彼女は僕とほぼ同時に働き始めたはずだ。たまたま、お嬢様から話を聞く機会があった?普通、あんな突拍子もない話、証拠もなしに信じたりするものか?もしかして、彼女もお嬢様に血を吸われたことがあるということか?それじゃあ、僕達は、お嬢様の血袋として雇われたのか?
「ミノリさんは」
「はい?」
小物を手に取り、物色していたミノリさんがこちらを振り向いた。今日の彼女は、いつものモノトーンのメイド服とは違って、アイボリーのワンピースにピンク色の上着を羽織っている。いつもとは違う彼女が新鮮で、彼女を見ると、少しの間何も考えないですんだ。
「いえ、ペンギン、好きなんですか?」
なんであんな事を知っていたのか聞こうとしていたのだが、やめた。彼女を改めて見たら、なんだかそれはとてつもなく無粋なことである気がしたのだ。ちょうど彼女が手に取ったペンギンの小さな置物に目を付けて、とっさにこう聞いた。
「そうねえ、特別好きってわけじゃないかな。恒温動物ならたいてい好きなの。恒温動物って大体みんな、可愛いじゃない?」
「はあ」
「トモ君は動物、嫌い?」
「いえ、どっちかっていうと好きです。ペンギンも好きですね」
「そうなの?じゃあ、悩んでたけど、このペンギン、買って行こうかな」
「そうですか?じゃあ、ペンギン好きとしてプレゼントしましょうか。布教です」
 なんだか、いつも通り動いている自分が、少し気持ち悪かった。喜ばしいことのはずなのに。だけど少なくともこのとき、僕はデートを存分に楽しんでいて、そんなくだらない事よりは、目の前の彼女が笑顔でいることの方がよっぽど大事だった。
「そう?じゃあ私は、この子をトモキ君にプレゼントしてあげる」
同じ棚から、さっきまでミノリさんが持っていたペンギンと少しだけポーズが違うものを取り、彼女はそう言った。そして二人でレジに向かって、別々に会計をして、雑貨屋を出たところで袋を交換して、二人で笑いあった。そうだよ。別に、お嬢様が吸血鬼だってわかったからって、きっと僕の生活に大きな影響が出るわけじゃないんだ。そうだ。昨日のは事故さ。僕も気を付けていれば、もう、こんなことは無いはずだ。
「ねえ、次はどこに行きましょうか?」
「ミノリさんは、どこか行きたいところ、ありますか」
「そうねえ。お洋服とか売ってる所があったら、少し見たいんだけど。女物を売ってる場所なんて、あんまり知らないかしら」
「そうですね。駅前のデパートぐらいしか心当たりがないです」
「じゃあちょっとデパートを見て、ご飯にしましょうか。お昼ちょっと遅くなっちゃったけど、大丈夫?」
「ええ。僕は朝も遅かったですし」
「なら良かった。じゃあ、少しだけ付き合ってくれる?」



そうして僕らは駅前に建っている百貨店を一回りした後、前もって調べておいた料理店に行った。年中遊び歩いている花村が推薦した店だけになかなかの美味しさで、ミノリさんも満足してくれたようだった。奴に感謝しないといけないかもしれない。
店を出ると、もう、日が傾き始めていた。どうしたものか。一応、いくつか案は用意してあるけれど。
「ねえ」
「はい、何でしょう」
「少し、話さない?」
 料理店の近くの公園を指して、彼女が言った。
「歩きながらでも、いいじゃないですか」
「駄目よ。雰囲気が大切な時も、あるの」
「……わかりました」
 どんな話をするかは、なんとなく、わかっていた。
 人気のない公園に入って、二人してブランコに座った。僕が子供のころなんかは公園で遊ぶことも結構あった気がするけど、最近の子供たちの遊びってのは僕らのころとはまた違うのだろうか。寂しくなるくらいに、公園には人気がなかった。
「ふふ、ブランコなんて久しぶり。いつ以来かなあ」
「僕も当分乗ってないですね。小学校の、高学年ぐらいが最後かな?」
「懐かしい。昔は楽しかったけど、今乗るとなんだか怖いね。ねえ?」
「はい」
「私、あなたのこと、好きよ?」
 ブランコを軽くきこきこやりながら、いつもの調子でミノリさんが言った。
「……はい」
 そうなのかな、と思うことは何度かあった。自信はなかったけれど。でも、なぜだろう?僕と彼女はろくに時間も過ごしてないし、けして大きなイベントがあったわけでもない。吊り橋効果が起こる余地すらないのだ。
「答えはいいの。今、そんなこと考えられないでしょ?ただ、覚えておいて」
 一度だけ軽く風が吹いて、公園の隅に植えられた広葉樹を揺らした。葉の擦れる音が響く。
 風が吹き終わると、空を見上げるミノリさんがとてつもなく美しく見えて、後先を考えずに抱きしめたい衝動に駆られる。抗いがたい衝動に、理性が悲鳴を上げる。おかしい。僕は彼女を、ここで抱きしめてはいけないことが分かっているのだ。
 
 まるで、お嬢様を、シズネちゃんを初めて見たときみたいだ。
 
「ミノリさんは」
「はい」
「どうして、吸血鬼のことなんて、知っていたんですか。どうして、僕にあんな話を、したんですか」
 やめておけばよかったかな、と、口に出してすぐに思った。自分から平穏をぶち壊しに行ったようなものだ。知らなくてもいいじゃないか。そんなこと。
「どうしても、気になる?トモ君にとってそれは、大切なの?」
「はい。……どうしても、気になります」
 それでも、僕はなぜか、引き返すことができなかったのだ。
「そう。じゃあ教えてあげる。私はね、吸血鬼なのよ。欲望に殉じた、誇り高い、吸血鬼の末裔」
 僕と彼女が口を閉じると、ここには他に何もなかった。まるで二人っきりの世界にいるよう。とても寂しい気がしたのだけれど、口を開く気にはとてもならなかった。相槌を打つ気も起きない。彼女も寂しさに耐えかねたのか、いや、おそらくは何の意味もなく、すぐに彼女は続きを口にした。
「自分のことだもの、よく知ってるわ」
「そう、ですか」
「あなたに話したのは、何もしないで奪われてゆくのは、我慢ならなかったから。どうしても、自分のものにしたくなったから。それを知ってどうするのかしら」
 どうするのだろうか。なぜ僕は、こんなことを聞いてしまったのだろう。僕はお嬢様にどんな顔をすればいいんだろう。ミノリさんになんて答えればいいんだろう。
 今は何も、わからなかった。



 なんだかくたくたになって屋敷に帰ってくると、正樹さんに声を掛けられた。
「トモキくん、先ほどお嬢様が探しておりましたから、荷物を置いてからでいいので尋ねてみてください。何かお話があるようでしたよ」
「わかりました」
 このタイミングで話って言ったら、確実に昨夜のことだろう。
「その、執事長は」
「はい」
「昨夜のこと、たぶん、知ってるんですよね」
「はい。一通りは」
「なんで、何も言わないんですか」
「なにか言う必要がありますか?」
 なにかって、あんなことがあったんだから、そりゃ、何かあるだろう。なにしろあんなこと、どう考えたって、普通じゃない。
 しかし、具体的に何を言うのが普通なのか、普通の人は今の僕にどんな声を掛けるのか、僕にはわからなかった。
「ない、かもしれません」
 そういえばそうだ。謝罪するにしても、正樹さんがすることじゃないし、大体の説明はミノリさんに聞いた。問題はそんなところしかなかった。
じゃあ、僕は何を悩んでいるんだ?あとはお嬢様と話をして、それで万事解決なのか?
「トモキ君は何を言われたいのです?何を求めているんですか?」
「わかりません」
「兎に角、お嬢様の部屋に行ってみたらどうですか。あなたが何を気にかけているのか、何を求めているのか、わかるかもしれません」
「……はい」



 一度部屋に戻って、荷物を置いて上着を脱ぐと、すぐにお嬢様の部屋に向かった。すぐに動かないと、お嬢様に会うのが怖くなりそうだったからだ。
 お嬢様の部屋の、重苦しい扉の前に立ってすぐ、勢いがなくならないうちにノックした。
「桐原です」
 つばを飲み込むと、すぐに返事が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼、します」
 不安を無理やり押しつぶして、ダークブラウンの重苦しい扉を開いた。
 開いたままの窓から夕焼けの差す、朱色に染まった中で、お嬢様は椅子に座って、何をするでもなく、そっと佇んでいた。吸血鬼の魅力に、強烈に心を揺さぶられる。ただそこにいるだけのお嬢様は、誘蛾灯のように、破滅へ誘う退廃的な美しさを秘めていた。動けなかった。どうすればいいかわからなかった。ただ、この誘惑に身を任せる事だけはしてはいけないと、たったそのことだけ、僕は知っていた。
 僕が立ち尽くしていると、お嬢様が口を開いた。
「その、昨日のこと、ごめんなさいね」
「……いえ」
 なんて言ったらいいのかわからなかった。ここのところ、わからないことだらけだ。だけど、何も言わなかったら僕が彼女に怒りを抱いているみたいに見えてしまうと思って、少し不愛想になってしまったかもしれないけれども、どうにか一言だけ絞り出した。
 あんなことがあったのに僕は、彼女に何の怒りも抱いていなかったのだ。あんな「普通じゃない」出来事が自分の身に降りかかったのに。
「ミノリさんから、話は聞いた?」
「はい。……吸血鬼が、どうとか」
言葉に詰まった。続く言葉を言うことに抵抗を覚えた。しかし、お嬢様が続きをせかしているような気がして、喉から言葉が押し出されてしまう。
「お嬢様が、吸血鬼だ、とか」
 言ってしまった。後味が悪い。後悔が胸を占める。言わなければよかった。何も言わず、今までどおりに暮らしていくことだって出来たんじゃないのか?いや、あんなことがあった時点でもう、無理だったろうか?
「そう。全部、聞いたのね」
 彼女はほんの少しも表情を変えずに言った。そして、少しだけつまらなそうな表情をすると、少しだけ寂しそうな口調で、口を開いた。
「ねえ、わたしはまだ、人間に見える?」
 一瞬、言葉に詰まった。この時の僕はどんな表情をしていたのだろう。少なくとも、見て楽しめるような顔はしていなかった。
「人間、じゃなきゃ、なんだって言うんですか……?」
 わかっていたのだ。わかっていた。彼女は吸血鬼なのだと。でも、怖かった。彼女にそれを突きつける勇気がなかった。そのくせ、彼女の事を人間だと断じる強さも持ち合わせていなかった。
 でも、僕がこう言ったって、彼女はきっと、わかってしまうだろう。彼女は、たぶん、そういう人だ。
「そう。そうなの。やっぱりあなた、優しいのね。そういうところ、わたしは……いいえ、嫌いじゃなかったわよ」
 彼女は椅子を降りて、窓に向かう。窓枠に手をかけて、僕に背を向けたまま、彼女は続けた。
「そうよ。私、あなたの事、嫌いじゃなかったわよ。だけど、もうだめ。一度血を飲んでしまったのだもの。このままじゃ、いつか私はあなたに血を飲ませてしまう。怖いのよ。もうだめよ。もう人間じゃいられないの。今すぐにも、力づくであなたを私のモノにしたい。あなたの血が、血だけに飽き足らず、心まで欲しいの」
 お嬢様が、シズネちゃんが痛切に心の内を叫ぶ。夕陽と、彼女の容姿と、立派な調度の舞台が合わさって、まるでオペラの一シーンのようだった。夕陽の紅色が、この人には良く似合う。
「……お嬢様が欲しいのは、僕の血ですか」
 彼女は、何も答えなかった。
「……僕を、血袋として雇ったんですか」
 一瞬の沈黙が走る。次にお嬢様が口を開いたときのその表情は、諦観だったろうか、寂しさだっとろうか、それとも。ともかく、一瞬の後に、彼女は口を開いた。
「もうおしまい。あなたの前では人間でいたかったけれど、わたしの方から壊してしまったんだものね。――あなた、クビよ。もともと、正樹さんだけで切り盛り出来てたんだもの。やっぱり執事なんて要らなかったわ。今日中に荷物をまとめて、うちから出て行きなさい。車は手配しておくから」
これが彼女の答えだった。彼女の言葉を最後まで聞くこともなく、僕は自分が何を言ってしまったかを理解した。
だって彼女は、「僕の前では人間でいたかった」と言ってくれたのだ。
同時に、彼女の声が震えていたのにも気づいて、どうにかして食い下がろうとした。僕は彼女のそんな声は、聞きたくはなかったのだ。しかし、何を言っていいか判らなかった。謝るにしても、それでどうなる?謝ったところで、僕が彼女につけた傷は癒えるのか?
「ちょっと……ちょっと待ってくださいよ。急にそんな。ええと、すみません、そんなつもりじゃなくてっ」
結局僕が発したのは、昔何かの本で読んだ定型句。ああ、そういえばあの本の少年も一方的に別れを告げられていたかもしれない。あの本、結末はどうなったっけ。覚えていないや。
「もう、決めたのよ。出て行って。話は終わりよ」
こんなのは嫌だった。こんな終わりかたは嫌だった。どうせなら性欲をぶちまけて、拒絶されたほうがすっきりしたかもしれない。いや、そのときもきっと言いようのない後悔が襲い掛かってくるのだろうか。
僕は、何もすることが出来ずに、そのまま部屋を出た。情けない。僕は今まで、何もしていない。彼女達に、何も出来ていないのだ。ほの暗い廊下に溶け込むように、僕は部屋を出た。
「ごめんなさいね……」
 ちがう。きっと、謝らなきゃいけないのは僕のほうだ。



呆然とお嬢様の部屋を出て、そのまま割り当てられた部屋に戻った。この部屋も、すぐに出て行くことになるのだろうか。ベッドに倒れこんで、枕元にあったリモコンで音楽を再生した。今は何のCDが入っていたっけ。
スピーカーはクラシック音楽を吐き出した。なんだっけ、これ。いつだかお嬢様に薦めてもらったんだっけ。
弦楽器の旋律を聴いていたらなんだか苛々してしまって、すぐにコンポの電源を切った。クラシックを聴くとリラックスできるって言ったやつは誰だよ。出てこい。責任取らせてやる。
いまは、何をする気も起きなかった。お嬢様と、シズネちゃんと和解したいけれど、どうしたらいいのかわからない。いや、和解というが、そもそもいま、僕たちは喧嘩しているのか?多分、そうじゃない。なぜか彼女が僕のことを分かったように、僕も彼女のことがわかる。
彼女の理性的な部分は、僕の血を飲みたくないのだ。彼女は、人間でいたかったから。
でもそれって、彼女の問題だ。僕の問題じゃない。僕にできることなんて、何にもないのだ。せいぜい、なんかの点滴でも打って、僕の血をまずくすることぐらい。そうしたら彼女も僕の血を飲みたくなくなるかもしれない。馬鹿馬鹿しい。
僕はここに来てから、彼女たちに翻弄されてばかりだ。
憂鬱な気分が憤りに変わってゆく。憂鬱が続いたから自律神経が気を利かせて化学物質を分泌したのだろうか。僕は彼女らにいいように扱われてばかりじゃないか。僕は、僕の意思はどこに行った?
憤りに任せて勝手なこと思う。わかっていたのだ。結局は、自分が何もしなかっただけだって。何かしたいとは思う。お嬢様と、ミノリさんと、吸血鬼の二人と、僕はどういう風にしていけばいいか、今は見当もつかなかったけれど、今みたいなのは嫌だ。お嬢様に、ひどいことを言ったまま別れてしまうなんて、嫌だ。
でもやっぱり、どうしたらいいのかわからないのだ。
僕は、彼女たちをどうしたいんだろう。彼女たちに、お嬢様に負けないくらい、純粋に相手のことを想える自信が僕にはなかった。
彼女は、血欲を抑えてなお、僕を好きだと言ってくれたのだ――たぶん。
やはり、彼女に僕のことがわかるように、僕も言葉の端だけで彼女のことがわかるような気がした。
きっと、彼女と僕は似ていたのだ。最初から。二人とも、これ以上ない臆病者だ。じゃあ、彼女はなんで僕の血を飲みたくないんだ?多分、僕に嫌われたくないからだ。吸血鬼として、人間の僕に嫌われるのが、嫌だったのだ。

そしてきっと、本当は、僕の血を吸いたくなるような血欲が、吸血鬼のことが、彼女は大嫌いだったのだ。


何もできずにベッドの上で腐っていると、ノックの音が聞こえてきた。
「私です。今、よろしいですか」
 正樹さんだった。車の用意ができたのだろう。
「……はい」
「失礼します。荷物の用意は、済みましたか」
「はい。もとから、そんなに物も持ってきてないですから」
「そうですか。では、行きましょうか」
「……いえ。まとめてみたら荷物もそんなになかったし、歩いて帰れます」
「そうですか。では、せめて表までお送りいたしましょう」
 僕の私物をぐちゃぐちゃにまとめた鞄を肩にかけて、すっかり馴染んでしまった部屋を出た。忘れ物はないかと、最後に一度だけ振り返る。
何もない部屋の中で、ベッドのシーツにしわが寄っているのが、目についた。なんとなく不快な気分のまま、執事長の、いや、正樹さんの後をついて歩き出す。少し歩けば、すぐに仰々しい正門にたどり着いてしまう。
「今まで、お世話になりました。さようなら」
「いえ、こちらこそ。それに、同じ町に住んでいれば、また会うこともあるでしょう。それはちょっと、いささか性急に過ぎるのではないでしょうか」
 嫌みのない笑顔で正樹さんが言う。
「それに――いえ、兎に角、また、どこかでお世話になることもあるでしょう。おそらくは、近いうちに」
 正樹さんが何を言いかけてやめたのかは少し気になったけれど、追求はしなかった。そんな気分じゃあ、なかった。これでなにか、つまらない、ありふれた答えが返ってきたら、それだけで何かに失望しそうだったから。
「そうですね……では、また」
「ええ。また、どこかで」
 門に背を向けて歩き出す。今すぐにでも走り出したい気分だったけれど、肩にかけた旅行鞄の重さが、それを許さなかった。



「ただいま」
 誰もいないのは分かっていたけれど、なんとなく声を出した。最近見に来てもいなかったから、少し郵便物がたまっていたし、少し掃除も必要そうだった。そういえば、今日の夕ご飯はどうしようかな。最近ろくに料理もしていないや。まあいいか。なんだか今日は食欲がない。
 明日、明日は学校があったっけ。学校の帰りに、必要なものを買ってこなくちゃ。食材も何にもないはずだ。
とにかく今は、休もう。いくら小さいからって、旅行鞄にミニコンポやノートPCを詰め込んで、肩にかけて歩くのは無理があった。くたくただ。
自分の部屋に荷物を降ろし、横になった。この部屋も不自然に空白がある。なんだか、居心地が悪い。久々に実家に帰ってきたというのに。
 そうだ。考えないようにしていたけれど、ここには、何もないのだ。僕しかいない。家に誰かがいることに慣れてしまったのだ、僕は。今まで一人で暮らしていたころは、何も感じなかったのに。
 まあいいや。すぐにまた、つまらないことにも慣れてしまうんだろう。この胸の罪悪感も、苛立ちも、きっとすぐに消えてしまう。人間って、なんだか悲しいけどきっと、そういうものなんだ。僕なんてまだ若輩者もいいところだけど、それだけはなんとなく知っている。だから、だから今日はもう、寝てしまおう。
 荷物もそのままに、僕はすぐにベッドに倒れこんで、眠りについた。


 いつもより早く目を覚ました僕は、シャワーを浴びて学校に向かった。一人で学校に向かうのも久しぶりだ。今日、お嬢様は、学校に来るのだろうか。
――できれば、会いたくない。
とはいえ、もしも今日彼女が休みだったとしても、いつかは顔を合わせなくてはならない日が来てしまうはずだ。そう考えたら、早いうちに済ませておいた方がいいイベントなのかもしれない。そうしたらそのうち、気まずさにも、距離感にも、慣れてしまうのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか学校に着いていた。特段早く出てきたわけでもないのだけど、いつもより数分早い。そういえば、僕の家はお屋敷より学校に近いのか。
教室に入ると、花村が席に座って携帯をいじっているのが目に留まった。あいつがこんなに早くから学校に来てるなんて、珍しい。
「よう、こんなに時間に居る珍しいじゃないか」
「ん、ああ。今日はなんか早く目が覚めてなあ。それよりどうした。お前こそ、一人で学校来てるの珍しいじゃん。篠宮は?風邪かなんか?」
「ん、ああ……」
 そうか。ここのところずっとお嬢様と一緒だったから、目についてしまうのか。どう説明したものだろうか。
「色々、あってさ。前の家に戻ったんだよ」
 なんだか寂しい話だけれど。
「ふうん」
「ふうん、って……」
 なんかこの、もうちょっとあるだろ。
「いや、だって聞きづらいだろ……大方予想も出来るし」
「予想?」
 ここのところ、僕身の回りには普通には想像も出来ないような話が飛び交っているのだけど。どういうことだ?まさか、こいつもなにか知っているっていうのか?吸血鬼なんてもののことを。
「まあ……お前が我慢できなくなっちゃってひと悶着あったとか、そういうことだろ?なんていうか、仕方ないよな、あんな娘と同居してたら……」
「全然ちげえよ」
 いや、ある意味では非常にいい線をついているのだけど――襲われたのは僕で、我慢できなくなったのは彼女なのだ。我慢出来なくなったのは性欲じゃないけれど。むしろ、性欲だったらどれだけよかったか。諸手を挙げて歓迎しよう。
「致命的なことにはならなかったようだし、とりあえずおとなしくしとけ。篠宮の気が変わりでもして大事になったら終わるぞ」
「襲ってないっつーのに」
 けど、もしかしたら、そういうことなのか?
 彼女が、僕を襲ったって、要するに、そういうことなのかもしれない。
 僕はあのとき、明らかに彼女に欲情していたのだ。あのままいったら、もしかしたらそういうことになっていたのかもしれない。
そうすると、僕が家を追い出されたのは納得がいかないけれど。そうだ、よく考えれば僕は何もしていないじゃないか。本当に、振り回されてばっかりだ。
結局その日、お嬢様は、学校に来なかった。

続く

琥珀の銘:3


     3

 僕がお嬢様の屋敷に住むようになって、二週間近くが過ぎた。仕事にも慣れたし、お嬢様もある程度は学校に馴染んだし(とはいっても、未だ、教室では基本的に僕とつるんでいるのだが)、ミノリさんともそれなりに仲良くやっている(最近、彼女が僕に敬語を使うことが少なくなってきた)。順調な日々である。
今日も、いつもどおりの晩御飯を済ませて、僕とミノリさんは居間でお茶をしていた。テレビには(この家は外見ほど貴族をしていないので、居間にはちゃんとテレビが置いてあるのだ)クイズ番組が映っていて、僕の知識のなさを突きつけてくる。それに反して、向かいにいるミノリさんなんかは意外にも、見たこともないような漢字だって読めたりするのだ。
 ホットケーキに、赤いジャムを載せて齧った。ジャムはミノリさんのお手製だそうだ。透き通っているようでその実くすんでいて、そう、ちょうど月のような赤色をしている。
「あのね、トモ君?」
「はい?」
「今度の日曜日、一緒に出かけませんか?特別なお仕事とか、無いよね?」
「ええ、ないですけど、どこか行きたいところでも?」
 日曜日はちょうど、ほとんどやることがなかったはずだ。土曜日のうちに終わらせておけば問題ないだろう。
「ええ、トモキ君とデートしたいかな、と思って」
 ちょっとむせた。悟らせない。絶対に彼女には悟らせない。強引に咳を押さえ込んで、自分でもちょっと変だと思う声色で言葉を返した。全然隠しきれていなかった。我ながら情け無い。
「そうですか。どこに行きますか?」
「ええっとねえ。実は決まっててねえ、わたし、まだここに来て日が浅いから、この家の周りしかよくわからないの。それで、トモ君とお散歩しながら教えてもらえたらいいなあ、と思って。トモ君、この町の生まれだよね?」
「ええ、まあ特に詳しいわけじゃないですけど、そういうことなら。何時ごろ出ますか?」
「そうねえ。せっかくだからご飯は外で食べましょう。確か正樹さんとお嬢様もお出かけする日だから、ご飯は作らなくてもいいはず」
「わかりました。じゃあ、十時半ぐらいに出ましょうか?」
「んん、それじゃつまらないから、駅前の噴水で待ち合わせにしましょう、デートらしく。じゃあ、十一時に噴水ね」
「はい」
「じゃあわたし、部屋に戻りますね」
「はい。洗い物はやっときます」
 しとしとと、柔らかな足音を立てて、彼女は居間を出た。
「どうしよう」
 デートだってさ。何を着ていこうか。何処を周るべきだろうか。なんせ僕はまったく女性がらみのことに関して経験の無い、情け無い童貞野郎なのだ。一体何をすればいいんだかわかったもんじゃない。とりあえず変に気合の入った格好では行かないようにしよう。それと日曜日までに、おしゃれで、お手ごろで、ついでにおいしいお店を探しておかなくては。
そういえばミノリさんって、どんなものが好きでどんな店に行くんだろう。彼女はどんな服を着てくるだろうか。
まずい、考えてたらちょっと欲情してきた。



「ということで、ここらへんでおしゃれでお手ごろなおいしいメシ屋を教えて欲しい。いいか、おしゃれなとこだぞ?忘れんな?ユーコピー?」
「アイコピー。それはいいけどさあ、何でお前そんなに強気なの?なんかあった?」
 僕は、「デートのことなら彼女持ちに聞けばいいじゃない!」という結論で、彼女持ちのモテるメンズに情報を聞きだすことにしたのだ。
「ないこともなかった」
「女だな?誰とデートすんの?篠宮?」
「いや、シズネちゃんじゃないけど……」
 お嬢様。そうだ、僕はお嬢様の事をまったく考えていなかった。もしかして、ミノリさんとデートをするというのは、僕とお嬢様の関係において特別な意味を持つのだろうか?
 いや、そんなことは無いはずだ。彼女が僕の事を特別に想っているとは思えないし、そうなればあとは僕の問題でしかない。
 僕は、お嬢様を……どう思っている?ずっと彼女の影を追いかけてきた。これまでにもたいして女の子を追っかけたりしなかったのも、心のどこかで彼女と比較していたからだ。失礼な話だが、なんせ、彼女と比較してしまったらどんなアイドルだって霞んでしまう。だから僕は、なんだか身が入らなくって、あまり女性に男性として関わらないようにしてきた。
まあ、それでも、至近距離での接触により、若い衝動に負けミノリさんの女性を意識してしまったが。いや、ミノリさんだって十分に美しいのだ。それは間違いない。
 ――それに、彼女は何か、お嬢様と同じ匂いがするのだ。
しかし、そうだ、そうだった。僕は彼女を追いかけている。だけどどうだ?果たして僕なんか彼女と釣り合うだろうか?
そもそも僕は、なんでお嬢様を追いかけているんだ?僕にお嬢様を追いかけさせているこの感情は、なんだ?
「へえ、じゃあ誰だ?どんな娘?俺知ってる?いつ?」
「今のバイト先の同僚。お前は知らないよ。年上で、おっぱいが大きい。ついでに背が高めの美人。日曜日に出かけることになってる」
「完璧じゃないか。紹介して!」
「だからその娘は僕とデートするんだって言ってんだよあとおまえは彼女いるだろ!」
「愛があれば大丈夫!」
「大丈夫じゃねえよ!二つ以上あったら問題だろ日本は!」
「大丈夫!籍を入れなきゃ日本なんて関係ない!俺と彼女の問題だから!」
 この馬鹿はどうしたものだろうか?一、二発ぶん殴ってやれば世間様に溶け込めるようになるだろうか。
「なに、騒がしいけど何の話をしてるの?」
「おじょ……シズネちゃん?」
 素が出かけた。椅子に座ったまま首を横にやると、僕の横に、すら、と、お嬢様が立っていた。
「篠宮?いや、日曜日こいつがデートをするって言うからね?おすすめのスポットなんかを教えてたわけですよ」
「へえ、デートするの?誰と?」
「バイト先の同僚だって。知ってる?」
 罪悪感に似た感情が走る。あまりシズネちゃんには話したくなかった。秘密にしておくこともそもそも不可能なのだけど、面と向かって話すには、なんとなく、気まずいのだ。陰で伝わっていてもそれはそれで複雑なのだけど。
「ああ、ミノリさん?あら、あなたたち付き合ってたの?」
「いや、付き合ってるわけじゃあないけど」
 僕の口から出るときに、少し、言葉がぶれた。堂々とこんな宣言をするのは、少し情けないように思えたのだ。
「ずるい。不公平だわ」
「え?」
「男女交際してないならミノリさんも私も立場は同じでしょう?なのに私がつまらないお付き合いをしている間にミノリさんはデートなんてずるいじゃない。不公平だわ。それなら私もデートがしたかった」
 ちょっと待て。その理屈はどこかおかしい。
「いや、デートって言ったって、この辺を案内するだけで、ミノリさんはそんなつもりじゃないと思うけど……」
 そうなのだ。そりゃ僕もミノリさんと二人でお出かけという事態に浮かれはしたけれど、そもそも彼女が僕に好意を抱いているかどうかはわからないのだ。ほんの冗談でデートなんて言葉を使っただけ、ということだって考えられる。むしろ、そうだ、といわれたほうが自然でさえある。
「ミノリさんと二人で出かけるんでしょ?それで二人でデートスポットにも行くんでしょ?」
「おしゃれなメシ屋を聞いてきたくらいだもんなあ」
「そんなの、立派なデートじゃない。やっぱりずるい。ねえ、今度の土曜日は私に付き合いなさいよ。最近羽根を伸ばしてないのよ」
「退散っとぉ……」
 花村が、こっそりと席を立ち、廊下のほうへ向かった。
「おいなんで逃げるんだよ!」
「馬には殺されたくない!あとは、お前の物語だ!」
「いいから!トモキはこっち!ねえ、土曜日は朝から出るわよ!」
「屋敷の仕事がありますよ」
 これはあまりクラスメイトには聞かれたくないので(もちろん、僕にとっては今までの会話も出来ることなら聞かれたくなかったが)小声で囁く。
「別にいいわよ。一週間ぐらいほっといたって、別に屋敷は崩れやしないわ。洗濯はミノリさんがやるし、料理は正樹さんがやる。別に問題ないでしょう?」
 それに、と彼女はそっと付け加える。
 座ったままの僕に、彼女は何気なく近づいて、すれ違うように顔を近づける。彼女の顔は僕の顔のすぐ横で止まった
 柔らかい匂いが香る。そして、そのつややかで小ぶりな唇を、そ、と開き、少しだけ息を吸った。
情け無いことに、僕は彼女とのあまりの近さにくらくらしていて、まともに物を考える余裕がなかった。
 彼女の、ためらうような呼吸が耳元に優しく響く。
「命令よ」
 そっと言葉を置くように、淫靡に僕に囁くと、彼女はまるで夢泡沫のように、僕のふところから立ち去って行った。彼女の香りが、教室のつまらない無機質な香りにまぎれてゆく。
 ――いま、僕が彼女に感じた感情はなんだろう?僕の脳みそをぽんこつのうすのろにした、このスウィーティで甘い感情はなんだろう?
 きっと、性欲だ。
 僕は、お嬢さまに性欲を抱いている。そしてきっと、ミノリさんにも。
僕のなかの、張り詰めた、堰に押しかける泥水のような部分が、彼女たちを手篭めにしてぐちゃぐちゃにして孕ませてやれと押しかけているのだ。
僕は彼女達のどちらかを想っているだろうか?愛しているだろうか?これは恋愛感情だろうか?
 いや、これはきっと性欲であって、僕は彼女達を愛してはいない。
 なんたって、僕は彼女達の事をまったくといっていいほど知らないのだ。
 仕事の合間に当たり障りの無い話をしたぐらい。あとは、僕をひきつけて放さない、彼女達の麗しい外見しか知らない。音楽の好みだってよく知らないし、そうだ。それこそ、彼女達に今懇意にしている男性がいるかどうかだってわからない。漫画とかだったら、お嬢様みたいな人には絶対、婚約者がいたりするのだ。
 ミノリさんだって、外見は申し分ないし、性格だって飛び上がって驚くくらいによいのだ。それに、あれだけおっぱいが柔らかそうなんだぜ?そこら辺の男が放っておくわけないじゃないか。
 そうだ。そういえば僕は、彼女達のメールアドレスだって知らない。本当に何も知らないんじゃないか。それなのに僕は、彼女達が屋敷に早く馴染むためか、優しくしてくれたのを勘違いして、見事に勘違い男になってしまったのだ。
彼女達の外見しか見ていないのに、どうして好きになれるんだ?
そうだ。所詮僕が好きなのは彼女達の外見であって、お嬢様そのものが好きなわけでも、ミノリさんそのものに惹かれているわけでもないのだ。上っ面だけだ。そこら辺のアイドルにお熱を上げるのと、なんら変わりはしない。そうだ。きっとそうだ。
 僕は、沈んだ気分をごまかして、鞄から次の授業のノートを出すと、面白くも無い復習を始めた。



 そして僕は、自分の黒く澱んだヘドロのような、粘着質の欲望に区切りをつけられないまま、週末を迎えることとなったのである。
 朝7時に目を覚まし、いつものように身だしなみを整える。そういえば、今日は私服で来るように言われていたっけか。しかし僕はワイシャツ党なので、私服にしたって何時もと大して変わりはしないのだ。ネクタイがなく、上着が安っぽいくらい。しかし今日は暖かく、上着も要らないようだった。
 服を着替えた僕は、ドライヤーを手に、いつもより執拗に髪を撫で付ける。収まりきらない癖っ毛に、引き出しから、ニュートラルグレイのUFOのような形をした容器を取り出し、UFOに内封されたペーストを指ですくおうとして、やめた。上下に分離した容器のふたを閉め、引き出しにしまい直す。
僕は、何を浮き足立っているんだろうか。僕はもともとヘア・ワックスが好きではないし(あのべたつきが駄目なのだ)、ろくに使ったことの無いヘア・ワックスなんてなじみはしないのだ。お嬢様と外出だからって、変にかっこつけてどうするつもりだ。そんなのどうせ逆効果じゃないか。ちょっと考えればわかることだ。どうせ僕は、いつもの姿をお嬢様に見られているんだぜ?
はねるような陽気さと憂鬱な気持ちが混ざったような不思議な感覚。徹夜したとき、朝方に感じる感覚に近いだろうか。胃の辺りに少しの吐き気を含み、心臓は陽気に、だがどこか不自然に跳ね、心は沈む。
おしゃれもそこそこにして、どうにかいつもどおりの僕を作り上げ、一階に向かった。
台所では執事長が朝食の準備をしていた。僕も一言断り、手伝いに入った。別に今日は当番でもなんでもないのだけれど、何かして気を紛らわしていないと、僕にもよくわからない何かに呑まれて、どうにかなってしまいそうだったのだ。
そんな不純な動機がいけなかったのか、トマトを切るときに、包丁の切っ先で左手の人差し指を、引っかくように切りつけてしまった。そこまで深い傷ではなかったが、血が指を伝って爪に滴を作った。零れ落ちる前に、慌てて舐め取り、ティッシュを巻きつけた。白くざらざらした、二枚重ねのキャンバスに、鮮やかな赤が広がってゆく。
その艶やかな黒髪からか、なんとなく黒い色の似合うイメージがあるお嬢様だが、こんな色もきっと、その黒髪を引き立てて似合うだろう。脈絡もなくそんな考えが僕の頭によぎった。深紅のドレスを纏うお嬢様。それは、きっととても美しい。しかし、そんな考えもすぐに、後ろ向きな言葉に埋め尽くされていく。僕は性欲に支配されているんじゃないのか。
 沈んだ気分のまま、サラダを作り終え、食パンをオーブンに突っ込み、つまみを回した。オーブンが赤熱し、赤外線がイースト菌と小麦粉と、水とひとかけらの塩、それともしかしたら防腐剤の結晶に向けて殺到する。食パンが狐色になるさまを、ゼンマイの音を聞きながら、僕は、なんともなしに見つめていた。
 素直になれば、楽しみなのだ。そりゃそうさ。憧れていた人と出かけるのだ。楽しみでないわけが無い。後ろ暗いものがあったとしても、出かけるという行為自体は楽しみだ。
 ベルの音を鳴らし、オーブンが役目を終えた。ほぼ同時に、執事長のほうの朝食の準備が終わり、お嬢様やミノリさんはまだ来ないようなので、僕ら二人で朝食を食べることにした。
 バターを乗せたトーストを齧る。狐色のトーストは軽い音を立てて千切れた。
「憂鬱なことでもありますか?」
サラダに手をつけようとしたときに、執事長に声をかけられた。とっさのことに、返事が一瞬遅れた。
「いえ、特にそういうわけでは」
「お嬢様は、トモキ君とお出かけになるのをずいぶんと楽しみにしておられました」
 そうなのか。もしかして本当に彼女は僕の事を想っているのか?それはそれで、僕の猛りは行き場を無くす。彼女の好意に付け込んで、自分の性欲を満たすような真似は、僕なんかには出来ない。僕は本当に彼女を想っていないのか?お嬢様にも、ミノリさんにも、真摯な思いというものを抱いてはいないのか?
 愛したい。真摯に人を想いたい。愛している、という免罪符が欲しい。なぜ自分の想いすら自由にならない?
 そうだ。僕は愛したい。お嬢様でも、ミノリさんでも、どちらでもいいから、愛して、その免罪符が欲しいのだ。なんだこの自己矛盾は。どちらでもいい、なんて言っている時点で、僕に愛がないことなんて分かりきってるじゃないか。
 そもそも、愛ってなんなんだ?
虚数単位を習ったときに誰だかが言ったっけ。花村だった気がする。「アイは虚数単位だから、自分と相手、二つのiが揃ってなきゃあ現実には存在できない」とかなんとか。もちろんそんな歯の浮くようなクサい台詞をのたまったバカはそのあと当分これをネタにからかわれ続けたのだが。しかし、アイは両想いじゃないと成立しないってか。
じゃあ僕はどうだ?お嬢様は、ミノリさんはわからない。片方のiすらも、僕は持っていないのか?僕は本当に、そんな、最低の人間なのか?
考えれば考えるほど、自分がなにを思っているのか分からなくなる。自分に信用が置けなくなる。なにをやっても上手く行かない気さえしてくる。
あきらめろよ、僕。適当にごまかせよ。
僕はあきらめなくちゃいけないのか?いや、あきらめるって、なにをだ?
自分でもよく分からない、ネガティブな思考のループに入っている僕を、正樹さんの声が現実に引き戻した。
「トモキ君が何を悩んでいるかはわかりませんが、自然にしていれば、何事も大丈夫です。いや、私達は自然にするほかない。自分に嘘がつける人間は、居るようで、その実、絶対にいない。面倒なことは何も考えず、一日過ごしてみてはいかがでしょう。外出の時くらいはね。それに、女性の前で他の事に現を抜かすと怒られてしまう、と昔から言うものです」
 そんなものだろうか。いまいち煮え切らない気分のまま、固焼きの目玉焼きの黄身をフォークで突き刺して、そのまま口にした。まるで満月を食らうかのように。どうせなら僕も狼のように、もうちょっといろんな事を考えないでいい生物だったらよかったのに。



食事を終えた後、僕は何かから逃げるように、やらなくてもよい仕事に取り組んだ。
そして九時ごろに降りてきたお嬢様が食事を終え、身支度を整えるのを待ち、ちょうど、僕の左腕に括り付けられた時計の短針が十時に差し掛かろうとする頃に、お嬢様に引かれるようにして、家を出た。
「ねえ」
 屋敷を出てすぐ、駅前へ向かう道の中、お嬢様が楽しそうな響きでそっと囁くように、しかしはっきりとした発音で、僕に声をかけた。
「なんでしょう」
「今日はどこに行くの?」
「え?」
 おいちょっと待て、僕が考えるのかよ。聞いてねえぞ。
「何よ、何も考えてないの?」
「すみません、てっきりお嬢様にどこか行きたいところがあるんだとばかり」
「まあ、なら適当にぶらぶらしましょ」
「はい」
「ああ、それと、その口調、やめなさいよ。今私達はデートしてるのよ?敬語を使われたら、なんだか不愉快だわ」
「ええと……うん」
 彼女の、もしかしたら好意の表れとも取れる発言は嬉しいのだけれど、なんだか素直に喜べなかった。
 横を歩くお嬢様――シズネちゃん(と呼ばないと今は怒られるだろう)を見る。
 後ろめたさからか、まともに彼女を見たのは、今日はこれが初めてかもしれない。僕は、彼女が何を着ているかさえよくわかっていなかった。
 今日の彼女は、いつもより落ち着いた格好をしている。彼女の服と言うと、海明の制服であるブレザーの他に、フォーマルな服装のイメージが強かったが、あれも「お付き合い」の時の制服のようなものだし、今日着ているような服装が、彼女自身の好みなのかもしれない。
 黒いフリルブラウスに、少し長めの、うっすらと桜色がかった、ホワイト基調のスカート。ゴシックロリータ風の色合いだが、デザインは派手ではなく、むしろシンプルな、安っぽい色気を持たないものであったので、シズネちゃん本来の雰囲気と相まって、非常に落ち着いた雰囲気をまとっていた。まるで、彼女の回りだけ、時間が、そして風が緩やかに流れているような錯覚。
 さくら。さくらの花弁の、生まれ持った色気を放つしとやかな、そして、儚いまでのやわらかな、うつくしさがそこにあった。
 彼女のその、風に吹かれ宙に遊ぶ黒は、墨だろうか。墨染めの桜がそこにあるのだ。
彼女は、僕は、何を儚んで、何を悼んで黒く染まっているのだろう。故事にあつらえて、ひねくれた考えでそんな事を思ったのは、それからどれくらい経ってからだったろうか。
 ただ、僕は何もせずに、見惚れていたのだ。あらためて、彼女の美しさを再認識するはめになった。
「どうしたの?」
 動きを止めた僕を不審に思ったのだろう。シズネちゃんが僕に声をかけた。
 変に隠すことでもないかと思って、ありのままを話すことにした。
「いえ……いや。服、似合うね。可愛らしい服も、似合ってる」
 こんなこと、普段言い馴れていないので少し声が上ずった。
「そう?」
 彼女は、嬉しそうに微笑んで、墨染めの花弁を揺らして歩き出した。
 そんな彼女の背中を見ているのも魅力的ではあったが、先を行く彼女に並ぶために、僕は、小走りに走り出した。
「ねえ、せっかくだから少し遠出しない?せっかくのデートなんだから、この街にいるのもなんだかもったいないものね」
 僕がシズネちゃんに追いつくと、すこし悪戯っぽい、キュートな笑みを浮かべながらお嬢様は言った。
「うん、いいよ。どこまで出る?動物園か遊園地?一応沿線にあるけど」
「たしかに行きやすいけど、あそこにいっても多分、私達じゃあすることがないんじゃないかしら。どうせ行くなら、それは今度きちんと時間を取って、上野か千葉まで出ましょうよ」
 どうやら彼女の中には、次もありえるようだった。
「だから、今日は新宿まで出ましょうよ。あそこならたいていは揃ってるし、何か思いついたらすぐに出来るでしょう」
 彼女のアクティブさになんだか圧倒されながら、このときの僕は、なんだかわけもわからず楽しくなり始めていた。
 だから僕は、逡巡する間もなく、その提案に頷いた。



 時計が正午を回る少し前、僕達は、人のまばらな電車に揺られていた。みんながみんな、十分二十分を争って、急行や各駅停車ではなく、特急電車に乗り込んだのだ。そのせいで、僕達の乗る各駅停車は、驚くほど人が少なかった。この電車に乗っているのは、急行や特急が切り捨てた、小さな駅や、人の多さを嫌った人だけ。なんだか知らないが、世界に取り残されたような、そんな寂しさを覚えた。各駅停車って、きっと、社会のスピードに合わせられなかったんだ。休みの日なのにみんな一分一秒を争って、とても座れないような電車に乗り込む。主要駅以外は切り捨て(なんと、十以上も駅があるのに、特急と来たら終点を含めて二つしか止まらないのだ)、効率化を図る特急電車。
 なんだか、僕には各駅停車がお似合いな気がした。もちろん、用があって遠出するときは、僕も迷わず特急を使うのだけれど、なんと言うか、こっちの方が僕の身の丈にあっている気がしたのだ。
 首都圏を走る電車の窓からは、線路沿いの、たいして面白くもない町並みが流れていた。特に特徴もない町並み。ろくにビルもなく、小さな川が流れたりしている。まるで特急は、この国の、この首都の、発展していない部分から目を背けているみたいじゃないか。
 ゆっくりと走る電車に揺られながら、僕とシズネちゃんは、どうでもいい話をたくさんした。それは特急と急行の話だったり、流れて来る町並みの話だったり、今日の昼ごはんの話だったりした。
 やがて電車は地下に潜って、次の駅が終点である事を告げる。
そうして、最短二十分のところを、たっぷり四十分近くかけて、僕達は都心に着いたのだ。



 慣れていないと、何処が何処に繋がっているのかわからない駅構内を、案内板を頼りに(と言っても、目的地もないので適当だったけれど)抜け、改札を出た先の、太い、四車線道路を見ながら、シズネちゃんが口を開いた。
「こっちは違うわね。華やかで、けばけばしい感じだわ」
 言ってから、彼女はすぐに歩き出した。僕も詳しいわけではないが、彼女が歩いて行った方向には、たしか映画館や百貨店があったように思う。
 あたりを見回すと、都庁なんて大層なものがある街の、駅周辺とは思えないくらい、新宿の街はごみごみしていた。狭い区画にぎっしりと、息が詰まるほどの間隔で、年季の入った建物が並び、雑居ビルそのものだってある。たまに混ざっている綺麗な建物が不自然なくらい。
 飲み屋にパチンコ屋はいくつも並んでいるし、質屋や、けばけばしい色彩で飾り付けられたアダルトショップのまがい物みたいなところまで見受けられた。いや、これはアダルトショップそのものなのか。店先にいくつも吊るしてある、安っぽいコスプレ衣装なんかは、やっぱり、その、コトをいたす時に使うのだろうか、なんて考えて、いまは女の子、それも、とてつもない美少女と一緒だという事実を思いなおし、全力でそんな生々しい考えを頭からかき消した。
 これ以上見ていたら、シズネちゃんでそういうことを考えない自信がなかったし、正直なところ、脳内でコスプレ衣装を着せるところまでは既に行っていたのだ。
 そうして、半ばやけのように、あたりを見回して、浮き足立った自分の心をごまかすように、何か、エネルギーをぶつける矛先を探した。
 なんだよ。特急、準特急って、なんだって利益にならないものを取り残して、それで出来上がったのがこんな街かよ。別に僕は嫌いじゃないが、こんなもの、お偉いさん達は大っ嫌いじゃないか。ざまあみろ。
なんとなく、僕の街を置いて行った誰か、手も届かないほど偉い人かなにか、もしくは経済が憎たらしくなって、心の中でこの街を少し馬鹿にしたくなった。
「けっこう、雑然としてる。この街に都庁があるなんて思えないくらい」
「そうね。新宿って、いわゆる綺麗な街じゃないわよね。御苑だってあるのに。駅から出て少し歩けば繁華街だし、キレイなオトナの好きそうな町並みではないわね。日本の首都の、副都心、なんて呼ばれてるのが信じられないくらい。いわゆる綺麗なところなんて、都庁の周りと、御苑の周りくらいね」
 なんだか嬉しそうにそう言った彼女に、ずるい、なんていう子供じみた感想と、「それ」が全ての、受け入れるべき真実であるような、その事実を含めて、この街を受け入れたいような感情がわきあがってきた。
 今、僕は何かを受け入れられる気がした。それが何かはわからないが、いつかそのときが来ても、僕はその「何か」を受け入れられる気がしたのだ。
「でも、私は、そんなものだと思うわ。気取らない、なるように動いてきた、素直な街だと思う。この街は、とても人間らしいじゃない?まあ、私なんかには見えていない、もっと後ろ暗い部分もいっぱいあるでしょうけどね。でも、そんなものでしょう?きっとうちの周りにも、世の中の暗部があったりするのよ」
 やはり少し嬉しそうに、また、憧れるようにして、お嬢様が言った。
 人間らしい、その言葉に、なんだか少しだけ違和感を覚えた。そういえば、面接の時に似たような事を聞かれたのだった。彼女にとって、人間らしさとは、何か意味があるのだろうか?人間らしさ?つまり何が何を人間たらしめているか?そんなもの、他の動物との差異を考えたら出てくるかもしれないけれど、僕達が長期的に考えるようなことではないと思うんだけど。
 だって僕達は、人間として生まれてきたのだ。ならば僕達が取る行動は全て人間らしいし、思想も、構造も、何もかもが人間らしいじゃないか。当たり前だ。だって僕達がその人間なのだから。
「やっぱり、都会に出たい、とか思ったりするの?」
「いいえ、そう言うのはないわ。都会に出たからと言って、今の私には別に大したメリットもないもの。ただ、違うと思ったから口にしただけ。あなたは?」
「僕も別に。まあ、この先就職したりしたら、会社の近くに住みたいとは思うだろうけど」
「会社に住んじゃえば良いじゃない。理想的な職場ね、篠宮家なんか」
 急に、シズネちゃんが足を止めた。
「そうだ、お昼ご飯どうしましょう。何か食べたい物とかある?私も、よく来るわけではないから詳しくはないけれど」
そう言えば、ちょうど今は正午から、長針が半回転したあたりだ。昼にするにはいい頃合だろう。でも、情けないことに、僕は彼女に似合うようなおしゃれな料理屋なんて、まったく知りはしないのだ。だから、素直に彼女のエスコートに甘えることにした。
「いや、何でもいいよ」
「そう?じゃあ、あそこのお店でいいかしら。もっとおしゃれなところも、一応知ってはいるけれど」
 駅を出て、少し歩いた先にあったのは。
「牛丼?」
 全国展開している、牛丼のチェーン店だった。こっちはお味噌汁がついてこないんだよな、確か。
「ええ。一回食べて見たかったのよ!でも、一人じゃあ入りづらいでしょう?貴方が、もっとデートらしいところに行きたいなら、それもいいけど」
 いや。僕は別に構わないのだが。
「別にいいけど……ここでいいの?」
「ええ。ご飯を食べたら、洋服を軽く見て、映画でも見に行きましょうよ」
 お嬢様は、牛丼屋の自動ドアをくぐって、意気揚々とカウンター席についた。
「ちょっと!先に食券を買ってからだって!」
 店内の色々な視線が、集まった。



 安っぽい牛丼を食べ終わった後、僕らは百貨店の中を見て回っていた。この百貨店は映画館をその頂に構えていて、映画の上映時刻まで時間が空いたので、時間つぶしにウィンドウショッピングを楽しむことにしたのだ。
「ね、あなたこういうのも似合うんじゃない?」
 そう言って、彼女が僕の体に押し当ててきたのは、深い、とても深い赤をした、深紅のワイシャツ。なぜか、僕達は紳士服を見ていて、彼女は生き生きとした表情で、僕を着せ替え人形にするのだった。性をひとまとめにして語るのはあまり好きではないけれど、やっぱり女の人は買い物が好きなのだなあ、なんて思ってしまう。
「ちょっとこれは派手過ぎるんじゃ……」
「大丈夫よ、あなた、こういうの着てても嫌味にならないもの。きちんと合わせれば、しまって見えるわ」
 そういうものだろうか。こんなの、派手な上に僕みたいな奴には似合わない気がするんだけど。もし似合っていたとしても、薄っぺらいナンパ野郎かヒモにでも見られてしまいそうだ。
「じゃあこれと、これに合わせて適当に見繕いましょうか。でも、こっちのシャツもいいわね。いいわ、買っちゃえ」
お嬢様は、次々と、洋服をプラスチックの買い物籠に放り込んでゆく。男物の服を。
「ねえ、ちょっと来てちょうだいよ。これ、サイズは合うかしら」
 苦しゅうないわよ、なんてふざけながら、彼女は僕を呼んだ。
 言われるがままに近くに寄り、彼女の好みの服をあてがわれる。
「あのう、その。見立ててくれるのはありがたいんだけど、僕は今日、こんなに服を買えるほどお金を持って来てないんだけど」
 とても情けなく思いながらも、いざ会計になってからでは遅いので、恥を忍んで切り出した。
 すると、彼女は、一瞬驚いたような顔をして、そのすぐあとに、左手を口元にやり、上品に、
くすくすと笑い出した。
 ひょっとすると間抜けになりかねない驚いた顔も、もちろんその上品な笑みも、美しく、そしてどこか幼いやわらかさを感じさせるのだから、シズネちゃんはずるい。
 どうせなら僕としては、彼女が洋服を選ぶのを見ていたほうが楽しかったのに。それこそ彼女なら、たいていの物は似合ってしまうことだろう。
「なんだ、そんなこと気にしてたの。別にいいのよ、最初から私が買う予定だったんだから。成金だもの、私」
 そしてまた、彼女はくすくすと、上品に、そして、どこか、本当にどこか妖艶に笑った。
「その代わり、せっかく買うんだから着なさいよ。もちろん、この赤いのも」
 そして、ちょうど満足したのか、彼女は、籠いっぱいの服を持って会計に向かっていった。
彼女の横で、会計が終わるのを待つ僕を見る、店員の女性の視線が、少し痛かった。



 頃合を見て、エレベーターに乗り映画館へ向かう。その頃には僕の両手は結構な大きさの袋で埋まっていた。袋の重さに、朝作った切り傷が、少し痛んだ。手に傷を作るといちいち不便だ。それでいて治るのに時間が掛かったりするのだ。痛みを感じたまま、デパートの紙袋を持ち直した。それにしてもこんな荷物、映画を見るときに置く場所がないんじゃないだろうか。
 結局あのあとも適当に服屋のハシゴを続け、二揃えと、ばらばらに数着程度の服を買ってもらったのだ。ありがたいのだが、少しだけ情けない。
 あとは、シズネちゃんの服も数着。どうやら彼女は、赤系の色が好きらしい。それにモノトーンを合わせるようだ。まさに、いいところのお嬢様らしい趣味のような気もする。彼女なら何を着ても似合うとは思うのだけど、青系の色や明るい黄色には見向きもしていなかった。
 こうやって、お嬢様の事を、シズネちゃんの事を知ってゆけば、いつか僕は、僕の気持ちに整理を付けられるようになるのだろうか。僕は彼女を愛せるようになるのだろうか。
 でも、それってどこまで知ればいいんだ?
 僕達は、どこまで相手の事を知れば満足できるんだ?
 


大きな袋を抱えながら、柱にもたれかかって、ポップコーンを買いに行ったお嬢様をまつ。なんともなしにあたりを見回すと、やたらとカップルが目に付いた。
 それもそうか。この時間帯にここにいるような奴は、おおかた、僕らと同じ映画を見るやつらだろう。恋愛映画なんて、そうそう男だけで来ることなんてしないし、女性だけだって、もしかしたら抵抗を感じる人もいるだろう。こんなもん、そうしたら、必然的にカップルに比率が大きくなるのは道理じゃないか。
 これから僕達が見る映画は、はるばる太平洋を越えてやってきた、公開間も無い洋画だ。
 わりと老成した恋愛を描いているあたり、そこら辺の恋愛映画よりよっぽど僕の好みにはあったが、なにぶん、僕には、愛なんてものがよくわかりゃあしないのだ。
 愛なんて、そうだな、やたら純粋で、やたらまっしろで、ついでに情熱的で、羽根が生えてたりするんだろ?
 そんなもん、見たこともなければ、理解できるわけもないじゃないか。
 ああ、なんだ。そうだよ。わかってたじゃないか。僕は性愛を理解なんてしちゃいない。きっと、その欠片も知っちゃあいない。ただその言葉の響きに、憧れているだけだ。
 それなら、僕が抱いている感情は、綺麗なものじゃあ、ましてや愛なんかじゃあ絶対に――ないんじゃないか?
 そうだ。それに、なんたって、僕は、執事として働いているのだ。屋敷のお嬢様に色目なんて使って良いはずが無いじゃないか。二股まがいの事だって考えていた。何をトチ狂ってたんだ、僕は?
 それなら、僕は出来るだけ、彼女に対して抱いている劣情を表に出さないようにするしかない。僕は、彼女に嫌われたくはないのだ。
 そんな結論を僕が手に入れてからすぐ、お嬢様が、大きめのキャラメルポップコーンのバーレルと、飲み物を載せた紙製のトレイを手に入れて、戻ってきた。人並みをなんともなしにすり抜ける当たり、本当に庶民じみたお嬢様だ。
「混んでいて時間が掛かっちゃった。コーラでよかったでしょ?」
「うん」
 そういうシズネちゃんは、ちゃっかりタピオカジュースなんて買ってたりした。やけに遅いと思ったら、別の店も回ってたらしい。だから自分で行くなんて言ってたんだな。ちゃっかりした人だと思う。そして、そんなところがまた少し、可愛らしく見えたりするのだ。それが良いか悪いか、知らないけれど。
 大きな荷物を抱えたまま、館内に入った。もしかしたら荷物がとても邪魔になるのではないかと思っていたけれど、僕らの席は、ちょうど中央あたりの列の、端から二つなので、端に寄せておけば上映中は邪魔にならなそうだ。
ところで、このような場合、女の子(かつ雇い主)にはどっちの席を譲るのがマナーなのだろう。通路側が下座で、内側が上座?それでいいのだろうか?そもそも、映画館の席に上座下座ってあるのか?相手は女の子なのだし、とにかく、通路脇は避けておいたほうがいいだろうか。
しかし、今日一日中、どこを歩いても道行く人の視線を集めてしまうような女性を、見知らぬ人間の横に座らせるのも少し不安である。
僕らの席の隣の人を確認すると、清楚な風にまとめた大人しそうな女性であったため、僕は安心してシズネちゃんを、上座と思われる席にエスコートした。
通路側の席に僕が座り、足元に荷物を置いた。隣のお嬢様は、早速、キャラメルポップコーンに手を付けていた。
僕が席に座ってすぐ、スクリーンにお決まりの広告が映し出される。少しばかりじれったい時間を過ごし、ようやく本編の上映が開始された。
 上映が始まってすぐ、僕はなんだか少し居心地の悪さを感じた。そしてそれは映画が先に進んでゆくごとに、どんどん大きくなっていった。
そうだ。ぼくはまだ、何もわかっていない。何も区切りを付けられていないのだ。
 ぼくらが見た映画は、人生に一区切り付けた老齢の男女の愛情を描いたものだった。スクリーンの中に、これ以上なく美しい、純白の愛情が描かれてゆくごとに、ぼくは何かに追い立てられて居場所を無くしてゆく。
 それがなんなのか。僕を、僕のうちから追い立てるものはなんなのだろうか。その答えも分からないまま、映画は結末へと突き進んでゆく。
 スクリーンにスタッフロールが流れる頃になっても、僕は得体の知れない焦燥感にかられていた。映画の内容は、よく覚えていない。



「なんだか、期待してたよりくだらなかったわ」
劇場を出て、彼女は、夕闇に包まれた街を歩きながらそう言った。ショウウィンドウのガラスをすり抜けるデパートの照明と、のろのろと混雑した道を行く車のヘッドライトがなんだか目に痛い。
少し上を見上げると、満月がひっそりと佇んでいた。夜空に星の陰はなく、該当の光は、星を、月の存在感すらも飲み込んでしまう。
「そう?」
「そうよ。なんだか、綺麗すぎるわ。嘘くさい。いえ、あのくらいの歳になったら、本当にああいうふうになるのかしら。わからないわね。あなたはどうだった?」
 どうしようか。そうは行っても僕は内容をろくに観ていないのだ。さすがに大まかな流れくらいは覚えているけれど。
「そうだなあ、僕は割と涙腺が弱いから、勢いでちょっとやられたかもしれない」
 たぶん、僕がしっかりと見ていたら、こうなっていただろう。話としてはまとまっていて、勢いもあった。たしかに、これはヒットしてもおかしくはないかもしれない。一般受けはするだろう。
 シズネちゃん――お嬢様みたいなタイプには受けないかもしれないが。
「へえ、そうなの。意外ね。あなた、予想を裏切られないと満足できないタイプだと思ってたわ」
 それが、彼女の予想は当たっていたりするのだ。確かに僕は、そういうものが好きだ。ただ涙腺がゆるく、勢いでやられやすいだけで。
どうして彼女はそんなことまで見通せるのだろうか。いや。僕にもなんとなく、分かる。ほかならぬ彼女が、そういうタイプだって、なんとなく分かるのだ。そしてその直感的な理解には、やはり根拠もない自信があった。
「いや、そういうのが一番好きなんだけどね。勢いや雰囲気にやられやすくて。頭じゃ分かっちゃいるつもりなんだけど」
「そう、やっぱりそうなのね?だってあなた、見るからにそんな感じ、するもの。でも、勢いとか雰囲気とか、分かるのもいいことだと思うわ」
 彼女の顔がほころんだ。美しく、時に近寄りがたいほどのある種の雰囲気を感じさせる彼女は、その神聖とでも言うようなイメージに反して、その実、ころころと表情を変える。彼女はすぐに笑顔を見せ、そして時折、凄く印象的な、寂しそうな顔をする。
「シズネちゃんも割とそういうタイプでしょ。予想外じゃないと満足できないタイプ」
「ええ。分かるかしら」
「なんとなくね」
「そう。ところで、駅ビルでお土産を買って行きましょうよ。何か食べるもの」
「いいけど、みんなどんなものが好きなんだろう?」
 そういえば僕は、正樹さんの好みなんて知らない。ミノリさんもろくに知らないし、シズネちゃんだって。そういえばシズネちゃんは白味噌より赤味噌のお味噌汁のほうが好きだった気がする。でもこんな情報、お土産には何の役にもたたない。
「正樹さんは意外と甘い物が好きよ。ミノリさんは……まあ何でもいいでしょ」
 なんだか投げやりな気がするけどまあいいだろう。ミノリさんも甘い物はわりと食べている気がするし。
「じゃあ、何か甘いものにしようか」
 といっても、なにがあるだろう。だいたいの物は揃っているだろうけど、一口に甘い物といったって、それこそ逆に、無数にあるのだ。そして僕はわりと優柔不断で、こういうのを決めるのが好きではなかったりする。
「そうね。なにがいいかしら。洋菓子にしましょうか、和菓子にしましょうか。あなたはどっちが好き?」
「そうだなあ……どっちも好きだけど、今日は和菓子がいいかもしれない。餡子ものがいい気分」
「じゃあ私、最中がいいわ!タネヤの奴!」
「あるかなあ、タネヤ」
「あるわよ多分。新宿だもの」
 結局、タネヤは僕らの使う鉄道と別系列の鉄道会社の駅ビルに入っていることが分かったので、僕らは足を伸ばして最中を買いに行った。
帰りの電車も各駅停車。僕らは、ゆっくり時間をかけて、とりとめもない話をしながら我が家へと戻った。帰り道は、なんだか、胸が苦しかった。
地元の駅に着いてからは、何故だかお嬢様も無口になった。僕達は、一体、お互いに何を思っているのだろう。
見上げた満月が、僕達を、いやに寂しく照らしていた。

続く

琥珀の銘:1

     1

つい先日のことだ。僕が働いていた店が、店舗の移転だとかでこの町から無くなることになってしまった。そして、僕にこの町を離れる気はなかったし、そこまでバイト先に愛着があったわけではない。
 であるからには、生活費のためには、僕は、新しいバイト先を探さなくてはならない。
 だが、今までのバイト先が異常な高待遇で雇っていてくれていただけで、同じような条件でバイト先を探しても、見つかったものではなかった。
唯一見つけた、そこそこ良い条件の求人に応募したのだが、不採用となってしまった。学生で時間の都合が付きづらい僕は、そんなに便利な人材でもないのだろう。ただ単純に、面接でどこか気に食わないところがあったのかもしれないけれど。
「他のバイト、あたるか……」
 なんとなく、憂鬱な気分だった。不採用になってうれしいこともあまりないだろうけれど。
別にそこまでお金に困っているわけではなかったけれど、先のことを考えたら大して多くもない貯金を切り崩してゆくのは抵抗がある。空を仰ぐと、今日もつまらなそうに輝く太陽の陽射しが目に痛かった。もうあと二月もすれば、夏が来るのだ。彼女と初めて出会ったときと同じ、夏が。
「くそう……」
思考が頭の中をループして膿みはじめ、どこからも見放されたような気分になった。
 こうなったらダメでもともとである。やれることはすべてやっておくべきだ。そう思った僕は、いつもしょっぱい求人しか出されていない役場の掲示板に向かった。
「まあ、ないと思うけど……」
掲示板に張られた紙を片っ端から見て回る。その大半は婦人会やら盆踊りやら、町の行事についてのことで、回覧版でも見た内容ばかりだった。
その中でわずかにあった求人は二件。
一つは、商店街の個人経営のコンビニ。ここはすでに検討していて、今のところと時給は大して変わらないのだけど、そんなに長時間の仕事がもらえるわけでもなかった。とりあえず保留だ。あんまり忙しすぎて学業の方がおろそかになっては元も子もない。自由になる時間が増えたところで、勉強に打ち込む予定はなかったけれども。
そして、もう一つは。
「執事、メイド募集!未経験者大歓迎!スーツ・メイド服が似合う方よ集え!」だった。
 胡散臭いことこの上ない。なんだよメイドと執事って。喫茶店だろうか。ついにこの町にも喫茶店ができるのか。自分の容姿に自信があるわけでもなし、あんまりこういう仕事はしたくない。しかし、お給料が、破格だった。
「……これは検討してみてもいいんじゃないか」
 僕にとって、多少の恥よりも余裕を持って生きてゆくことのほうが大事である。プライドと心中する気は毛頭ない。
そして、今の世の中生きるためには先立つものが必要である。プライドよりも先立つものを。何よりも先立つものを。
「よし。考えてみよう」
立地条件。山の手の住宅地。うちの家からはなかなか離れているが、まあ通えないこともない。給料。破格である。業務内容。掃除、炊事、etc――詳しくは気軽にお尋ね下さい。その他、備考――住み込みで働ける海明学園生、歓迎。以上の条件を満たしたものは、業務内容が増えるかわり、給料に特別手当がつきます。何か質問があれば気軽に職場までどうぞ。住所――。
「何だ、これ」
海明学園。我が家から徒歩20分。自転車だと10分そこら。学力はそれなりに高め。まさしく、僕が通っている学校である。僕は今、実質一人暮らしのようなものであり、住み込みだって楽勝だ。そして、どうやらこれは本職の執事を募集しているのであって、妙な喫茶店なんかじゃなさそうだった。
「おあつらえ向きだなあ」
執事業務に経験はなかったが、そこは相手も未経験者歓迎と言っているのだから、ある程度の覚悟はしているのだろう。ならば、それに甘えてしまうのも悪くない。
「よし、とりあえずここ、受けてみてもいいかもしれないな」



メモをした住所を頼りに、件の職場へと向かう。高級住宅街の中の、見覚えのある曲がり角を曲がった先には、僕が昔忍び込んだあの家がそびえていた。
「ここ、か……」
妙な偶然もあったものだ。この家の外観は、以前とさほど変わっていない。しかし、住民はどうだろうか。「彼女」はどこかに越して行ってしまった。果たして、今の住民はどのような人間なのだろう。
もしかして、彼女が帰ってきた――?
そうであればいい。そうであってほしい。あの時より美しいものを僕はまだ見ていないから。
僕は、淡い空想を抱きながら門をくぐった。
絵に描いたようには大きくはないけれど、それでも僕の背丈よりはよっぽど大きい鉄門をくぐった僕は、いつかとは違い、堂々と庭を歩いて行った。噴水と、噴水が背負う巨大な屋敷をなんとなく眺める。今日も、空は綺麗な青色だった。そらいろ、と言うほかに、僕はこの、地球の中から見た大気の美しさを表す方法を知らない。
いつかと同じように、この庭は明るく微笑んでいて、僕はそれに後押しされるように、ニスを塗りたくったマホガニーの玄関ドアの脇に取り付けられた、色気のない電子チャイムのボタンを押した。緊張よりも幾分か高揚感が強い。
はやる気持ちを押さえつけながらすこし待ち、出てきた年配の執事のおじさんに、応接室に通された。
出された紅茶を一口、口にして、仕事について尋ねた。どうやら、家事の一部を集められたメンバーで分担して行ってゆくらしい。海明云々は、どうやらここの主人が海明と関わりがあるらしく、学校に出向いたときに何か用事を申し付けられるかもしれないということ。一人小間使いにできる人間が居れば便利、とかその程度の考えのようだ。
これなら、大丈夫そうだ。
家事全般は、一人でやっている以上、それなりにはできるつもりでいる。サボることも、コインランドリーやコンビニに頼ることもあまりしていないのでよそに出ても恥ずかしくないくらいの能力はあるつもりだ。待遇だって十二分に良い。
この家なら多少の違和感はあっても、住んでいて困ることもないだろう。
――よし、これなら。
「すいません、面接を受けたいのですが」
執事のおじさんに簡単な履歴書を渡し、そのまま面接会場に通された。まさか今日すぐにやるとは思ってもいなかったので、すこしだけ後悔にも似た感情が混ざり始める。性急すぎただろうか。
長い廊下を通り、階段を上って、面接会場を目指す。
子供のころに開けた気がしなくもない、いかにも高級、という雰囲気をばらまくダークブラウンの扉をくぐる。
ああ、僕がなんとなく覚えている頃と変わっていない。
ブラウンがベースの家に合わさって、赤い絨毯が重々しい雰囲気を作る。荘厳さ、と言うのだろうか。いや、それよりもう少し俗っぽい雰囲気だ。
そして、雰囲気に呑まれた僕が、一瞬固まったあと、顔を上げると、そこには、長い黒髪の美しい、二つの琥珀を携えた少女が、美しく、だけどちょっと可愛らしく、椅子に座っていて。
彼女だった。
彼女だ。僕の五感が、第六感が、そして僕のすべてが彼女だと叫んでいる。
見間違えようはない。見間違えるわけがない。彼女みたいな魅力の持ち主が二人といてたまるもんか。
僕のチキンハートがドラムスをたたき始めた。どうやら新曲は激しいビートが売りらしい。
彼女は、ずいぶん見ない間に本当に美しくなった。前よりも。ただでさえ異常な美しさであった以前よりも。
黒髪は光を受けて妖しく輝き、そのつやめきは、その蟲惑的なしっとりとした流れは、まさに濡れ烏という日本人の黒髪に対する最上級の
賛美を使って差し支えないものであった。きっと僕らのご先祖さまだって、この娘の髪に使うのならば何の文句もないだろう。
シックにまとまった服から覗く肌は、まるで子供のころの肌を持ってきたように肌荒れ一つなく、健康な、温かさを残した、けれど透き通るようなちょうどいい白さで、彼女の美しさの土台として、存在感を出しすぎず、だけど絶対に必要なものとして、音楽で言うならばまるでベースギターのようにそこに存在している。
そして、その眼。彼女の持つ、その琥珀――僕にとって最も印象深いその琥珀の対は、子供のころのあどけない輝きを残しつつも、歳月を経たことによるものか妖しさを増し、三秒以上見つめられる自信は僕にはなかった。真剣な目をされたら一時間くらい呼吸を止められるかもしれない。
だから、こんなに彼女が美しくなっているから、面接に向かおうというこのときに、僕は全く頭が働く気がしなかった。
しかし、ここに面接のために来た以上、僕の再起動を待たずして、それは始まってしまうのだ。
「始めましょうか」
女性にしては少しだけ低めの声が告げた。
「――お名前は?」
「桐原トモキ、です」
「そう。晦明の学生らしいけれど?」
「はい。普通科の二年に通っています」
「二年、ねえ。何組かしら?」
「B組です」
「ふうん、B。……あなた、仕事のほうはどうかしら?こなす自信はある?」
「はい。事情があって一人で暮らしているので、一通りの家事はこなせるつもりです」
なんだ。意外とまともな返答が出来るじゃないか、自分。彼女を前にした時はどうなるものかと思ったけれど、この調子で行けば乗り切れそうだ。よし。気を抜かないで行こう。
なにしろ、このバイトには僕の生活がかかってるんだ。それにせっかく彼女とも――。
「住み込みでも問題ないのよね?」
「ええと、はい。何しろ一人暮らしですので」
 ――別の面で問題は発生したが。僕の精神力が試されるわけである。
「いつから働けるかしら」
「それはもういつからでも。すぐにでも働けます」
 むしろ、余裕のある人生のためにはすぐにでも働きたいというのが本音だ。
「そう。じゃあ、いくつか質問よ。人間と動物の違いって、何かしら」
 随分とつまらなさそうな風に、彼女は言った。
なんだそりゃ。僕のイメージ――テンプレートどおりの大和撫子なお嬢様を期待していた――に反して、彼女は意外とユニークな人種なのかもしれない。思えば、僕は彼女の内面的な部分について何一つ知らないのだ。それにしても、初対面でこんな変な事を聞くって言うのは、その、どうなんだ。何の意図があるんだろう。
考えようが何もわかりそうにもないし、ゆっくり考える時間もなかったので、とりあえず、僕は質問に対し当たり障りのないところを答えることにした。
「一般的なトコロでいったら……理性があるかないか、とかでしょうか? あ、火を使えるかどうか、とかもありますね」
「あなた個人としては?」
 この質問には何か、深い意味があるのだろうか。僕が言った常識的な意見では食い下がれないらしい。
そも、僕はあまりこういう会話が得意ではない。好きではあるが、得意ではないのだ。
というのも、どうやら僕は結構に偏った考えの持ち主であるらしく、自分の考えをぶっちゃけてもあまり理解されることがない。
だから、こういう話はあまりしたくない。
したくないのだが、今の僕に話をする以外の選択肢はないと思った。適当なことを言っても、琥珀の双眸はそれを見透かしそうな気がしたのだ。
だから僕は、脳の奥底に自分用のラベルをつけて保存しておいた持論を口にした。
「なんら変わりがないと思います」
 こんなことを言うと、アレルギーのような反応を示す人もいるだろう。だから、僕には彼女がそのような人種でないことを祈る他なかった。
「そう。じゃあ、人間の定義って、何だと思う?」
 彼女の表情が変わった。少しだけ、面白がるような、期待するような声色で言ったように聞こえた。人間の定義。何がどうあればそれは人足りえるのか。犬は人ではないのか?
 誰に聞いたって、恐らくは、人でない、と言うだろう。
 じゃあ、人語を解する犬はどうか?それとも、気取ったアルミ合金のフレームに、イカした小型動力を積んで、なめらかな人工皮膚で覆った、スイックスとかセヴンなんて名前がついてるようなアンドロイドはどうか?
 ヒトの定義の順当な答えとしては、遺伝情報、だとか、人から生まれてくるもの、だとか、そんなところが挙げられるだろう。
 しかし僕は、いままで蓄えたどうしようもない考えと、今考えた理屈と、大部分の、稲光に似た思い付きをもって答えた。
「僕にとって自分と同種に見えれば、僕にとってそれは人です」
 SFの巨匠、フィリップ・K・ディックだって書いてたろ?高度なアンドロイドを殺す苦悩を。人間と見分けがつかなくなったアンドロイドを愛せる事を。だとしたら、それを、ヒトと区別することには何の意義があるんだ?
「ふうん。ねえ、よく、御伽噺とかで、人に化ける狐とか、いるじゃない。あれは?実際に見たら人に見えるでしょうけど、あれも人なの?」
 どう答えたものか。一瞬悩んだものの、すぐに、しっくりくる意見が思い浮かんだ。
「ええと、僕もちゃんと読んだわけじゃないんですけど、『変身』ってありますよね、カフカの」
「ええ。有名ね、私も読んでないけど。主人公が虫になるのよね」
「そうです。主人公は確かに、虫になった。だけど、たしか、家族からは厄介に思われつつも一応、人、というか家族として扱われたはずですし、カフカも、人として書いたんじゃないでしょうか。多分、あの話の主人公は人であって虫でもある」
一区切りして、次につなげる。自分でも、なんで面接に来てこんな話をしているのか、わからなかった。
「だから、人を装うことに成功したものは、たとえば、玉藻の前だって妖狐であり、人間であったんだと思います」
「ふうん。頭のいいヒトはDNAだのなんだのを持ち出すと思うけれど。そのほうがはっきりしてるじゃない」
「安倍清明、たぶん、知ってますよね」
僕の口はすらすらと動く。今の今まで居場所を持たず、乱暴な堰で抑えていた僕の片鱗が、ようやく見つけた安住の地へと、僕の脳のきっと深くから、不器用な口を通して、それでも勢いをそのままに、押し寄せていた。
「もちろん。有名だものね」
「物語の中の話ばっかりで申し訳ないですけど、あの人、母親が狐だったはずです。もしそんな狐がいたら、DNAなんて意味を成さないでしょう?それに、僕は、ヒトの形でヒトの言葉を使うものを、遺伝子の違いだけで割り切れません」
「ふふ、なかなか夢想家ね。でも、そう、はは、そうなの!」
今の会話の何がお気に召したのだろうか。彼女はうれしそうにひとしきり笑うと、執事さんのほうに向きなおった。
あわよくば、僕の考えの「偏り方」が、つまりはアイデンティティが、評価されているのであってほしい。それは、僕と同じことが出来る人間ではなく、僕個人が求められていることに他ならないから。
そしてそれは、自我を確立した人間の多くが、本当に多くが求めてやまないことのはずだ。
「正樹さん、決めました。採用するわ。条件もいいし」
「そうですか。分かりました、後のことはこちらで」
「お願い」
 また僕のほうに向き直る。さっきとは打って変わって冷静な表情だ。
「いいでしょう。あなたを採用しましょう」
――そして、今に至る。
「さて、では、貴方には、この屋敷の執事――といっても所詮間に合わせだけれども――として働いてもらうことになります。――では、これから私のことは」
「御主人様と、お呼びなさい」
哀しいような、嬉しいような、それともにやけ顔に通ずるもののあるような。不思議な笑顔を持って、彼女は、ご主人様は、付け足すのだ。
「あなたの言葉、なかなか素敵ね――私みたいのにとっては」



「さて、では仕事内容だけれども」
 それはさっき執事さんに確認済みだ。
「はい、それはもう執事さんに聞いてます」
「ああ、正樹さんに聞いたの。今日はまだいいけれど、明日からはあなたも執事よ? ちゃんと名前を覚えておきなさい」
「はい」
執事。いざ自分がそう呼ばれると不思議な響きだ。
「一応確認しておくわね。あなたの仕事はこの家の家事一般と私のお付。家事はあなたのほかにもう一人メイドを雇ったから、正樹さんを含む三人で分担しなさい。外に出る時はあなたについて来てもらうことになるわ。まあ、別に私は有名なわけじゃないし、一応の保険よ。ただの荷物持ちと思ってくれても構わないわ」
有名じゃなくても確実に彼女は外見で目立つだろう。これはなかなかつらい仕事になりそうだ。
それにしても、外出時のお付というのは初耳だ。日中は学校に行く僕にそんなことが出来るのだろうか。
「はあ……しかし、僕は一応学生ですので、御主人さまが外に出るような時に家にいないことも多々あるかと思いますが……」
「ああ、そこは聞いてなかったのね? ふふ、正樹さんの悪戯かしら。そのことだけれど、何も問題はないわ」
一拍おいて、御主人様は本当に楽しそうに言う。
「私も、あなたと同じところに通うんですもの」
え?
「だから、たぶんあなたは主に学校でのお付を担当してもらうことになるわ。まあ、学校で使用人に頼るようなシチュエーションはそうそうないと思うけれど。お父様が心配性でね?休日やなにかは、メイドについて来て貰うことになるわね」
女性しか入らないようなところもあるわけだし、と悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼女は続ける。
なるほど。家の主人が海明と関係があるとは聞いていたけれど。
「え、じゃあ、この家の主人って言うのは」
もしかして。
「私のことだけど?」
 なんともまあ。こんな屋敷の主人と聞いて髭をたくわえた西洋紳士を想像していたものだが、まさかこの少女だったとは。
「ふふ、こんな小娘がこの家の主人で驚いたかしら。ああ、あと、学校では流石に目立つから、私のことは普通に名前で呼んでくれていいわよ。ああ、そういえば自己紹介がまだだったかしら。篠宮シズネ、年はあなたと同じ。これからよろしく」
「――はい。よろしくお願いします」
 正直、この一時間で急転した僕の生活に僕の頭は付いていってなかったが、反射的に相槌を打った。
 超を五回つけても足りない美少女と同棲して同じ学校でしかもストーカーのようについて回ることになるわけで。
 そしてその美少女は憧れていた女の子なわけで。
学校での周りの目だとか彼女にたかる虫を払うのが大変そうだとか煩悩退散だとか、そんな考えが脳内を飛び交った。
「ああ、そういえば私、あなたと同じクラスに入るから。越してきたばかりでまだ通学していなかったのよ」
まあ、そりゃあそうだろう。いちいち別のクラスまでお嬢様の様子を見に行かなきゃならないなんてのは控え目に言っても苦行の類に分類されるだろうし、お嬢様だってそんなことで悪目立ちしてはやりづらいだろう。
「じゃあ、此処の家に、あなたの必要なものを運んでしまいなさい。正樹さんに頼んで車を出してもらうから。まだ日は出てるし早いほうがいいわ」
「……はい」
こうして、なんだか勢いに飲み込まれるようにして、僕の新しい仕事が決まった。



「ええ、と。今日からお世話になります」
「はい。よろしくお願いします。桐原トモキ君でしたか。私は、三瀬正樹といいます。三瀬でも正樹でもどちらでもお好きなようにお呼び下さい。執事長、と呼んでくれてもかまいません。私、その呼び名に少し憧れていたものでして」
はあ。
三瀬正樹、さん。初老の男性で、年齢の割には背が高い。きっちりと整えられた白髪は身に纏うスーツの黒とマッチして、見るものに清潔感を与える。
まさに、絵に描いたような執事だ。
ただ、主人である彼女と同じでなかなかにお茶目な人ではあるようだが。
「じゃあ、執事長って呼ばせていただきますね」
「はい。ありがとうございます」
 彼女――ご主人様の言いつけで、正樹さんに車を出してもらった。行き先は僕の家だ。
 執事付きの家の車と聞くと、リムジンかなんかを想像しがちだが、僕の想像とは違い、普通のセダンだった。とはいえ、かなりいいモデルではあったが。
正樹さんはダークグリーンのセダンを、丁寧に、滑らかに動かし、その車体を住宅街の中に滑らせていった。
「ええと、この辺りでしょうか」
「ああ、はい。そこの突き当りを右に行ったところです」
見慣れた風景が窓の外を流れる。何の変哲もない、同じようなデザインの家が並ぶ住宅街。
住民でなければほぼ確実に迷うであろう、どこの町でもさして変わらない眺めだ。
その中に、ぽつんと一つだけ周りから浮いた空気を放っている家が一つ。周りの家と比べて一回り年上のその平屋が、僕の家だ。
入れる車もなくなって久しい庭――昔は父親のセダンが置いてあったのだけど――に、車を止めて、僕らは、家の中に入った。
「よろしければお手伝いさせていただきますが?」
「あ、すいません。そうですね、でも服くらいしか持って行くようなものはないので、大丈夫です。居間かどこかでゆっくりしててください」
「そうですか。では、そうさせていただきます」
執事長を居間に通して、僕は自分の部屋へと向かう。
洋服箪笥を開け、片っ端から服を旅行鞄に詰める。
ちょっと適当だけど、こんなものだろう。何か足りなくなったら、取りに来ればいい。
あとは、ノートPCと充電器。それと、通帳に印鑑、保険証、あとはちょっとした書類の束。残念だが、秘蔵の本とDVDはそのまま部屋に隠しておくことにしよう。屋敷に持って行ってお嬢様に見つかったら悲惨すぎる。想像するだけで恐ろしい。
「執事長、用意終わりました」
居間に行って執事長に声をかける。
「早いですね。もう、よろしいですか?よろしければ参りましょう。今日中に仕事の打ち合わせもしたいところです」
「はい」
止めてあった車に乗り込み、家を出る時に、僕は一筋の憂鬱に気付いた。
初めて生まれ育った家を出て、違う家で暮らすということが、僕には、今までの、生まれてからずっとこのときまでの、幸せだったことも、苦難に満ちたこともひっくるめた、僕の人生全てへの裏切りのような、気がしたのだ。



「では、今日からこちらの部屋を使ってもらうことになります」
「あ、はい」
 屋敷の、一階にある部屋に案内された。
部屋に入って周りを見回す。この屋敷らしいというかなんと言うか、予想にたがわず、広く、アンティーク調の調度でまとめられた、お洒落で威厳ある一室だった。
「そこに制服が出してあります。靴のほうは、後日サイズに合った靴を用意しますが、とりあえず今は持ち合わせの靴を使ってください。荷物を置いて着替えたら、食堂まで来て下さい。食堂の場所、分かりますね?」
「ええと、ここに来る途中にあった場所ですよね」
「はい。では、失礼します」
 執事長が、静かにドアをくぐり、そしてやはり静かに、ドアを閉めた。
「ふう……」
 荷物を適当な場所に転がし、上着を脱いだ。
 ベッドメイクがきちんとされた、ホテルにあるようなベッドに倒れ込む。体のほうは大して疲れていたわけではないけれど、一日にいろんなことがあり過ぎて、すこしだけ休みたい気分だった。
 僕は一体、何をしてるんだ?昨日の僕は、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。ベッドに寝転がる自分にも違和感を感じた。こんな大きなベッドは初めてだ。なんだか落ち着かないくらい。だけど、こんなこともすぐ、慣れてゆくのだろうか。少なくとも、今の僕にとって、明日もこのベッドで寝ているのは確かだった。もちろん、何があるかはわからないわけだけど。
 いつまでもこうしているわけには行かないので、気合を入れてベッドを降りて、制服を手に取った。
渡された制服はなんてことはない(といってもそれなりにいいものなんだろうが)白いワイシャツに、黒のスラックス、黒い靴下である。それに黒のベスト。出来るだけきちんとした身なりを目差し、だらしない着こなしにならないよう服を着替える。
「なんか似合わないなあ」
 鏡に映った自分を見ると、どうも服が浮いているように感じる。所詮、僕は血統書もついていない一般人なのだ。
「まあ、しょうがないか」
 これが制服なんだから仕方ない。急いで食堂に向かおう。
そうして僕は、脱ぎ散らかした服を適当にまとめ、部屋を出た。



「執事長?あれ、いないんですか?」
食堂に行ったが、執事長はいない。早すぎたのだろうか。
「あ、ちょっと待っててくださーい」
 僕の声が聞こえたのか、隣のほうからのんびりとした風な女性の声がした。言われたとおりに待っていると、どたどたと、お上品とはいえない、しかし不快ではなく、どこか愛嬌を感じさせる足音が聞こえてきた。足音はこちらの部屋に近づいてきている。
大きくなっていく足音に耳を傾けていると、食堂に一人の少女が飛び込んできた。
女性にしては高めな背、どこかの美の女神に微笑まれたかのような豊満なお身体、美しさと可愛らしさにパラメータを等分したような顔つき、そしてなんだかぽややんな表情。豊満な体を、ダークグレイ地にホワイトのエプロンとヘッドドレスが映えるシックなメイド服で隠したこの女性は、おそらく先ほどの声の主だろう。
一秒だろうか、二秒だろうか。それとも実は、ほんの一瞬だったろうか。どれくらいの時間だかわからないが、僕は彼女に惹きつけられて、見惚れてしまっていた。なんだかとても抗いがたい力が、僕の意識を彼女に釘付けにしたのだ。
初めてお嬢様を見た時と似たような感覚。あの時ほど長くはなかったけれど、それでも僕は時間を忘れて彼女を見つめていた。
何かが惹きつけられる。目は釘付けになり、そして、あのときとは違って、腹と胸は、はちきれそうな何かを抱えて切なく張り裂けそうだし、喉元には、むずがゆいような、暖かいような、そしてやはり、切ないような塊がこみ上げている。
とにかく、今は仕事中だ。しっかりしろよ。
体の制御権を手に入れて、落ち着きを取り戻したところで、メイド服のぽややんな彼女が口を開いた。
「ええと、お話は聞いてます、新しく入った桐原君ですよね?」
「あ、はい」
「私もついこの間雇われたばかりの新人なんですよ。これからよろしくお願いしますね」
 そういえば、ご主人様から聞いた気がする。
「そうなんですか、よろしくお願いします。ところで、お名前を教えてもらってもいいですか?」
「ああ、すいません、自己紹介してませんでしたね。ええと、小鳥遊ミノリといいます、先日からこの屋敷で働かせていただいてます」
「ええと、タカナシ、さん」
 続く言葉を口にしようとした僕を、彼女の遠慮がちな声が遮る。
「ええと、あの、出来れば、名前で呼んでもらえないでしょうか」
 なんともまあ。僕はもちろん童貞なので女の子を名前で呼んだりなんか恐れ多くてたまらないのだが。
「ミノリ、さん」
 少し照れ臭かったけれど、平静を装って名前を呼んだ。
「はい、ありがとうございます」
「それで、僕は何をすればいいんでしょう?」
「今から夕食の準備を始めるので、こちらを手伝ってもらえますか?この時間帯は他にはやる事はないはずです。あ、お料理とか、大丈夫ですか?」
「まあ、それなりには」
「じゃあ、大丈夫ですね。私たちは仕込みだけですから」
「はあ。料理人……がいるなら、仕込みはしませんよね。誰が?」
「あはは。ここの家は、どうもそういう、いわゆる「お金持ち」然とはしていないみたいですよ。雇われてるのは今のところわたしたちだけですし。あと、料理を作るのは執事長です。絶品なんですよ、あの料理」
 顔が幸せそうだった。どうやら執事長の腕前は、あとで思い出して顔を緩めるほどのものらしい。
「へえ、楽しみですね」



「トモキくんは」
僕の手の中でジャガイモ様が余所行きの衣装をはだけてゆく。きっと野菜裁判所では、幾人もの野菜の衣をひん剥いたピーラーは無期懲役どころの騒ぎじゃないだろう。
傍聴人席の新じゃがが、土の付いた人参が、中身の入ったペットボトルやバールのようなものをピーラーに投げつける。そして裁判官の、先が二股に割れたそれはそれは雄雄しい、豊作を象徴する大きな大根様が、その手に握った木槌を叩きつけ――
 野菜様たちの歓声が響く。彼らはこれ以上ない勝利を手に入れた。しかし傷を負った野菜様たちの心は二度と取り戻されることはない。
 なお、包丁様は未だに野菜警察の手を逃げ延びている。ウォンテッドである。
「はい?」
「何でこのバイトを?こういっちゃなんですが、普通は来ませんよね、こんなとこ」
 お家もあるはずですし、と付け足す。
 暗に、自分には普通でない理由があると言っているのでもあった。
「ええ、まあ」
 ピーラーを包丁に持ち替えながら答えた。僕たち、お手伝い連合にとって共通の話題は確かにこれくらいしかなく(僕の発想が乏しいだけかもしれないが)沈黙と野菜様を脱がしてゆくあられもない仕事の退屈に耐えかねたミノリさんが、少し不躾な質問を口にしたのも、もしかしたら仕方のなかったことなのかもしれない。あるいは、彼女がただぽややんなだけで、もし彼女がこの質問をされても一向に気にしないだけであった。
「うち、家族いないんですよ、前にちょっとあって。それに、家も遠くないので何かあってもすぐ帰れますし」
 顔を上げて、なんとなくミノリさんの顔を見るのも気恥ずかしくて、ミノリさんの手元を見ながら答えた。彼女は手際よく、ジャガイモの芽を取っている。
 ミノリさんが、顔を手元に向けたまま、失敗と苦味の混ざったような顔をした。
「その、すいませんでした」
「事実ですから」
大丈夫ですよ、と、できうる限り柔らかい表情(自分では見えないが、柔らかい表情ができていたはずである)で付け加えた。
 こちとら何年も似たやり取りを繰り返しているのだ。
「それで、一応お金のほうはそこまで困窮しちゃいなかったんですが、一応この先のお金を用意したいので。ぼくにとってすごくいい条件なんですよ、ここ」
「そうなんですか」
 こんな時、「大変だね」と、同情のこもった表情と口振りで言ってくれる人が、数え切れないほどいる。この言葉を言われた回数なんて僕はそれこそ数え切れない。可哀そうな僕に同情してくれているのだろうが、僕は自分のことを可哀そうだなんて思っちゃあいないのだ。
 だから、そんな彼女だから、その言葉がきっと失礼に当たると思える彼女だから、このとき僕は、ほんの少し、ミノリさんに、きっと一方的な好感を持った。
 あるいは、彼女はきっと、ただ単にぽややんなだけであったかもしれなかったが。
「私は」
一瞬だけ躊躇ったような間を置いて、ミノリさんが、その瑞々しく可愛らしい唇を開いた。なお、先ほどよりミノリさんの行動に色眼鏡がかかり始めている気がしなくもない。後で外しておこう。
「シズネちゃんとは、親戚なんですよ」
「はあ」
 そういえば、どことなく似通った物はあるかもしれない。顔立ちも、身の丈も、雰囲気も何もかもが違うが、そう思った。どこだろう。――匂い?あの部屋で少し香った匂いと、今僕の鼻が感じる匂いは似ているかもしれない。使っている香水でも同じなのだろうか?
「それで、私が上京することになったので、ここに置いてもらってるんです。大学生なんですよ、私」
なるほど。よくある話と言えばよくある話だ。わざわざこっちまで来てるということは、やはり結構いい大学に通っていたりするのだろうか。
「へえ、大学、ここらへんなんですか?」
とはいえ、直に大学名を聞くのはためらわれた。僕はまだ大学受験なんてのを経験していないので分からないが、コンプレックスを持っている人も少なくないようだし、初対面でずけずけとそんな事を聞く勇気はなかった。
「そうですねえ、ちょっと離れてますけど、通える距離なので。大学の近くはお家賃も高いですしね」
 話しながら刃物を扱っていたのが悪かったのか、それとも、ふ、と香ってきたミノリさんの柔らかな香りに気を取られたからか、手先が狂って、じゃが芋を持っていた左手を少し切ってしまった。深さこそないが、血がにじみ出てくる。
「大丈夫ですか?見せてください!」
 ミノリさんが、慌てたような、あせったような様子で僕の手を取った。
 彼女は、一瞬、傷口を見つめたあと、僕の口を、ゆっくりと、ためらうように、それとも惹きつけられるように、指に含んだ。
僕は、何がなんだかわからなくて、声を上げることも出来ない。普通、会ったばかりの人の指を口に入れるものか?相手が美少女なこともあって、そりゃあ僕には、不満こそないが、それでも違和感を覚えた。
指を口に含んですぐ、血の味に、彼女は驚いたような、もしくは苦味に顔をしかめるような顔をした。
そしてすぐに、彼女の舌は僕の指を念入りに舐った。
舌が傷を舐める。舌先が、そっと、傷口に割り込むように触る。
恥に思うべきなのか、(僕にとって)驚くべきことに、このとき僕は、痛みではなく痺れるような快感を感じていたのだ。
彼女の小さな口ががそっ、と開く。指を曲げたいような衝動に駆られたが、まどろみの中にいるように、体を動かす気にならなかった。
彼女が一瞬こちらを見上げ、僕の指を甘噛みした。
唇のやわらかい感触に、指に触れる舌の暖かさに、やさしい歯の感触に、僕は吐息を漏らした。
すると、僕も彼女も我に返ったように、僕は思考がまともな動きを取り戻すのを実感したし、彼女は僕の指を口から放すのだった。
「救急セット、取ってきますね」
 そう言って、彼女はぱたぱたと駆けて行った。
 彼女が救急セットを取って戻ってきたときには、僕もミノリさんも、まるで何もなかったかのように、落ち着いていた。



「ああ、申し訳ありません、ひとつやることがあったのを忘れていまして」
 丁度、僕が一通り作業を終えたとき、執事長が、その引き締まった体を規則正しく揺らして、食堂へ入ってきた。
「もう始めていましたか。これは申し訳がありませんでした。もう自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
 ミノリさんが、その独特の、柔らかな発音で持って答える。
「下ごしらえも、大体終わりますよ。今日はこれでいいんですよね?」
 ぽやぽやしてきた。もしかしたら彼女の前世は偶然繋がった電話から呼び出せてしまったお助け女神様かなんかじゃなかろうか。ああっミノリさまっ。どうか私めを下僕にしていただきたい。
「ええ、そうです。では、下ごしらえが終わったら、あとは私がやりますから、小休止して今後の打ち合わせと行きましょう」



「では、明日からはこのように。まあ、基本的に、ですので、その時々にあわせて柔軟に対応してください」
 執事長が調理場に来てから二十分足らずで僕たちの初仕事は一区切りがついて、そのまま仕事の割り振りを行ったわけだが、僕に与えられた仕事は主に、屋敷のお掃除であった。この広大な屋敷のお掃除。たまらない。
 といっても、平日はご主人様と学校へ向かうので、帰宅後に少しと、主に休日である。まあ、部活動のようなものであると考えれば、さほどの労働ではないだろう。
「……よし」
 なんとか、やっていけそうだ。具体的になってゆく新生活に、充実した予感を感じて、気持ちがはやる。
「では、私は夕食を作りますので、お二人は夕食まで休んでいてください。準備ができたら、お呼びします」
なんと。果たして、本当に、僕はここの執事もどきなのだろうか。
 執事長は料理が得意らしいし、こだわりを持っているのかもしれないが、少しだけ居心地の悪さを感じた。新しい環境っていうのは、苦痛を伴わない程度の適度な忙しさがあって、仕事に気を取られているうちにいつの間にか馴染んでいる、くらいのものが理想的なのだ。とはいえ、自発的に何かしようにも、僕は屋敷の勝手がまったくわからない。居心地の悪さに甘んじるしかないのだろう。
「トモキくん?」
 振り向くと、ミノリさんが遠慮がちに、僕のワイシャツの袖を引っ張っていた。人懐っこい人なのだろう。何もかも計算づくでやっている人もいるが、ミノリさんはそうではないと信じたいのが、たぶん、僕が女慣れしていないということなのだろう。
「はい、なんでしょう?」
「いえ、ぼーっとしてたので。お休みだし、部屋に戻りません?」
「そうしましょう」
 執事長に見送られ、ミノリさんに引かれるままにして廊下に出る。
彼女が僕に与える、無防備に似て、どこかなれなれしさに似たところもある、特有の感覚。きっとこれは、振り返り、初めて気付く幸福で、どこか、遠い昔に感じた母性を思い起こさせた。
 その心地よさから、僕は、部屋に着くまで彼女の手を振り解けずに、きっと外から見たらだらしないであろう顔を振りまいた。



 少しばかり居心地の悪い休憩時間となってしまったが、いい機会なので、少ない荷を解き、部屋に配置してゆく。服を箪笥に。書類を机に。あてがわれた部屋を僕に最適化して、ベッドに腰掛けた。胸の奥から、寂寥感と不安と、少しの期待を織り交ぜたような感情が湧き上がる。
 僕は、今日からここを閨にするのだ。
 お気に入りの置時計や、まっさらな机に置かれたデスクトップカレンダー、壁に掛けた小さな額が、ここは僕の部屋だ、と語りかける。ベッドの上から見る風景は、かつての僕の部屋と少しの類似を持ち、今になってようやく、僕はきっとこの家の住民になろうとしたのだ。
 腰を上げて、持ってきたミニコンポの電源を入れる。無愛想に、いつ見ても同じ顔をしている右向きの三角形をつついた。両脇の小型スピーカーが、その身を揺らし、空間を怒鳴りつけた。コンパクトディスクは今日も変わらず、きっと、既にその顔に皺を刻み始めただろう青年の叫びを撒き散らす。
 お気に入りの曲をリピートさせて、ベッドの上で、とりとめもないことを考えていると、ノックの音が割り込みをかけてきた。
「はい」
 曲を止め、ドアに向けて呼びかける。ドアが、少しの負荷に、小さな軋みを上げながら開いてゆく。
「今、いいかしら」
ドアの向こうには、ご主人様が、黒い、暴力的なまでの美しさをたなびかせてそこにいた。
「はい、もちろん」
もちろん、雇い主の言葉に初日から逆らえるまでもないし、何より僕の部屋に美少女が来るのだ。逆らう理由がないではないか。
「そう硬くならないでいいわよ。ミノリさん、会ったでしょう?彼女みたいに、のほほんとしてればいいの」
「はあ」
「暇なのよ。話がしたいの。堅くなって、一般論しか話さない人を相手にしゃべっても面白くないでしょう。それじゃあ、あなたみたいなのを雇った価値もなくなるわ」
 なるほど、もしかしたらあの面接は、僕の暇つぶし要員としての能力を測っていたのかもしれない。複雑な気分だ。僕の固有性は、暇つぶしのために求められていたのかもしれなかった。
「だから、何も憚ることなく話しなさい。これは雇用主からの命令よ」
 彼女を見る。優美の中に妖しさを潜めた、柔らかな微笑み。しかしその表情はどこか、いたずらっ子の満面の笑みを想起させる。
 彼女の笑顔と、ちょっとした、皮肉っぽいジョークに、表情筋が自発的に微笑を作った。ああ、彼女ってそういう人なのか。
「それはいいですけど、パワーハラスメントには気を付けてくださいよ」
僕の同意を得て、微笑を満足げなものに変えると、彼女は軽く部屋を見回した。
「あら」
 彼女の視線がベッドの上のリモコンに注がれる。
「音楽を聴いていたの?」
「ええ。特にすることもなかったので」
「へえ、あなたはどんな曲を聴くの?あなたみたいなヒトは、どんなものが好きなのかしら」
 そうだ。彼女は僕のことを何も知らない。そして、僕も彼女のことを知らない。
「……はい。ご主人様のことも、僕に教えていただけるでしょうか」
「ええ。だから、あなたは私を感じ取り、あなたが判断しなさい。そうよね?」
そうだ。僕の中でも、それはその通りだ。世界を作るのはいつだって自分だ。
「はい。僕の中に出来るご主人様が、ご主人様と違わないものになるよう願っておきます」
 僕らはきっと、お互いにすごく捻くれているのだ。わざわざ遠まわしな、ぼやけた言葉を放ち、そして相手のレベルを探る。僕はきっと、試されていた。僕らにとっての、僕らみたいな考え方をする人間にとっての基礎を理解しているかどうか。
 僕はきっと、ついていけたはずだ。手ごたえがある。大丈夫。
 ここは、この回答でいい。
 こんな会話、本当はなんてことはない。ただお互いに、これからよろしく、と挨拶を交わしただけなのだ。
 捻くれている僕は、もう一度リモコンのボタンを叩いた。音量をすこし下げるのも忘れない。一昔前のポップスは、あまりBGMには合わないかもしれない。それっぽいクラシックとか、ジャズかなんかを聴く趣味があれば良かったのだけど。
「結構前の曲なんですけど、知ってます?」
「ええ。この曲、割と好きよ」
 スピーカーの叫びを聴きながら、ご主人様が意外な言葉を口にした。
「へえ、ご主人様は、こういうのも聴くんですか」
「ひとまわり古いのが好きね。意外かしら?最近の音楽は嫌いなのが多いのよ」
「いえ、こんな家に住んでいるので、やっぱりクラシックか何かかと」
 テンプレートどおりの、お金持ちのお嬢様の一方的なイメージ。
「クラシックも聴くわ。けど、これも好き。小さな頃、テレビで流れてたわね」
 微笑を浮かべて彼女は口にした。
女を失った男の叫びに僕と彼女は共通点を見つけた。喜ばしいような、縁起の悪いような。僕にとって彼女はすでに、偶像の一つとなっていて、手が届くものではなかった。会えるものなら会いたいと思ってはいたけれど、そう思っていた時点ですでに、彼女は会えるものではなかったのだ。それが、急に手の届くところに来たものだから、僕は戸惑うほかなかった。再会した彼女は本当に美しくて、僕の中の偶像よりも魅力的なのだけれども、そもそも、彼女が目の前にいるということに慣れていないのだ。
その後、ご主人様と一般的には取り留めのない、しかし僕にとっては本当に大切な話をしているところに、正樹さんの号令が掛かり、僕等は夕食に舌鼓を打った。
正樹さんの料理は大変美味であったが、慣れない環境(なんと雇用主の美少女と同僚の美少女に囲まれて)での食事であったために、あまり料理の味に気を払えなかったのが残念だった。
そして、雑事を済ませると、加速度的に僕の生活が奇妙になった一日が終わる。

続く

琥珀の銘:0

     0

これは、いつの事だか僕もはっきり覚えていない、子供のころの話だ。
17、8にもなった人間ならば、おそらくそのほとんどが一度は経験したことであり、かつ青臭い恥ずかしさによって口に出そうとはしないことであろうが、僕にはあこがれの人がいた。
 なぜ僕が恥を押してこんな話をしているかはすぐにわかることになると思うので、とりあえずは僕の青臭くってそのうえ春の装いをした思い出話をしようと思う。
 当時僕がお熱だった相手は、よくありがちな近所のお姉さんでもたまに会う年上の従妹でもなくて、名前も知らない、おそらくは同年代の女の子だった。
 僕と、そんな彼女の関係はというと、言ってしまえば覗きの加害者と被害者であって、このことからもわかる通りに、僕と彼女の間にまっとうな付き合いはなかった。
 僕と彼女の関係について詳しく説明するとこうだ。
 僕が彼女と出会ったそのころ、やんちゃ盛りだった僕たちは、なにかと無茶をしようとした。僕らは罰ゲームと称して今になって思えばとてもとても正気の沙汰とは思えないようなこと(たとえば、越夏してしまったロケット花火の標的になるだとか)をしていて、その機会は能力に応じて、グループの皆に、基本的には均等に与えられていた。
責任能力もなく、またそんな言葉なんて知ったことではない子供たちは、自分が罰を受けなければそれでよく、直前まで罰に恐れていた自分を忘れて、自分以外の、苛烈な罰を幼い心と体に刻むことになった友人をはやし立てることが出来るのだ。
 そして、その日は僕が罰を受ける番だった。
 照りつける日差しが印象に残る、暑い、とても暑い夏の日のことだ。
 もう何に負けたんだか覚えてはいないが、時折心地よい風が吹く猛暑日に、僕は、友人たちの無責任なはしゃぎ声を背に受けて、当時子供たちの間で恐れられていた屋敷の庭に潜入することになった。
 僕が家宅侵入を犯すことになった家は、僕の住む町のはずれにある豪邸で、その姿はまさしく物語の世界のお屋敷だった。山を背に負ったその屋敷は、立地から来る豊富な緑に囲まれて少し薄暗く、またその気品ある厳格な外観と相まって町の子供たちの恐怖の代名詞となっていた。
 そして、そこに住む人間はどうやら社交的ではなかったようで、その姿を見た事がある者というのは殆どいなかった。
 それがまたその屋敷の、らしい雰囲気に拍車をかけて、子供たちの恐れと好奇心を加速させていった。そして、加速された好奇と恐怖は当然の如く次のような疑問を生み出した。
 中にはどんな人が住んでいるのだろうか。
その疑問について追及することは、恐ろしくもある中で、どこか縁日で見るラムネのような、あるいは、その味から食べられもしないべっこう飴のような魅力を持っていて、そんなある種蠱惑的な追及を、子供たちはその豊富な想像力をもって行った。
その結果、屋敷にはお化けが住んでいるなんて、絵に描いたようにありきたりなものから、吸血鬼がいる、謎のモンスターがいる、竜王がいる、囚われの少女がいるなんて噂まで立ち始めた。
 もちろん僕も屋敷を恐れていた、今になって思うと本当にばかな子供の一人で、そんなゲームのラストダンジョンみたいな屋敷に潜入するのは、それはそれは本当に怖かった。
平和を、そしてクリスタルを求め冒険を繰り返していたその頃の僕は、一度出会ってしまえば竜王からも古代の生物兵器からも逃げられないことを知っていたのだ。
しかし周りの子供たちの無責任な言動すらも僕から逃げ場をだんだんと削り取っていって、結局僕はこの罰ゲームを受けるはめになった。
 中にいるであろう恐ろしい怪物たちに気づかれないように、こそこそと、まるでどこかの黒光りする虫のように身を潜め、屋敷の背の山のほうから、踏み固められていないやわらかい土を踏みしめ、斜面に並ぶ針葉樹の間を抜けて、無事に屋敷の裏庭にもぐりこんだ僕は、そのまま、屋敷の壁伝いに表に回り込んだ。
 もちろん窓の前を通るときは身をかがめることを忘れず、角を曲がるときにも細心の注意を払って、人がいない事を確認してから曲がった。
 主観では忍者のように、しかし今にして思い返すと、きっと客観ではやはり虫のようにして家の前面まで向かうと、高い気温にやられてか、洒落た造りの玄関ドアが口を開いていた。
 ふと、玄関の脇から正門のほうを見ると、高く、四肢に澄み渡るような気持ちのいい青空が、陽光を、手入れの行き届いた庭に溢れさせ、大理石の白が、植え込みの葉のみずみずしい緑が、そして玄関の目の前の噴水の透き通る一滴が、蒼穹から溢れた光を受けて輝いていた。
 魔物が住むダンジョンにはふさわしくない光景だな、と、呆然と思った。どっちかっていうと、天使や神様のいる楽園みたいだ。でも最近は、神様がラスボスの時もあるんだよなあ。チェーンソーを用意するべきだったのかもしれない。本物のチェーンソーなんて見たこともないし、どこにあるのかも知らないけれど。第一、多分僕には使えないだろう。
 僕の理性は相変わらずくだらない事を考えていたけれど、このとき、なにかが押し寄せてくることを、僕は確かに感じていた。
 焦燥感なのか、それとも期待か、緊張か、歓喜か、とにかく、何か、大きな予感に、僕の胸は締め付けられたし、いつもより強く弾みもした。
 そして、その焦燥感、または期待からか、僕の脳みそに稲妻が走った。きっと、こんな事を天啓というのだろう。
 僕は、本当に何を考えたのだか、湧き上がる直感と焦燥感に従い、古代兵器と竜王とクリスタルと神様と、そしてもしかしたら――囚われの少女が眠る屋敷の中に向かって駆け出したのだった。
 飛び込んだ屋敷の中は、薄暗く畏怖を駆り立てる外見とは裏腹に、信じられないほどの清潔さであった。
 玄関には最低限の砂埃しかなく、辺りの調度にも塵一つ載っていない。またさりげなく廊下に設置された電話機も、まるで今しがた電気屋で買ってきたように埃一つなく清潔で、唯一それらにけちをつけたのはプラスチックの経年による劣化だけだった。
 屋敷に飛び込んで数瞬、辺りを見回した僕はもうすでに、ここが恐るべきダンジョンであることを忘れていた。
 わくわくした。
 どんな人が住んでいるのだろうか。
 それは先までのネガティブな疑問ではなく、こんなきれいで立派な家には、いったいどのような人が住んでいるのだろう、という極めてポジティブな疑問だった。
 そして僕は、靴を脱いで傘立ての陰に隠すと、欲求を満たすべく屋敷の奥に向かってまたも歩を進めた。
いったいどんな人物がここに住んでいるか確かめる気だったのだ。
もちろん、見つかったらこの家の主からも、今頃カレールウを煮詰めているだろう我が家の主からも大目玉を食らうことは容易に想像がついたので、それはもう、やはりどこかの虫のようにこっそりと、気配を消して進んでいった。
家の中に入って五分は過ぎただろうか。
屋敷の中は、やはりきれいに掃除されていて、そして子供の目にも高級だとわかる調度で清潔に整えられていた。
今までに人がいたのはキッチンだけで、見たところ、それ以外の人は出払っているようだった。
 そのことがわかった途端、ふと、ある欲望が、ふつふつと心の奥底の暗い部分から湧き上がってきた。
 このドアを開けてみたい。開けて、中に何があるかを見てみたい。
 廊下ばかり歩きまわっていて、初めは物珍しかったものに慣れてきたのかもしれない。
 もしくは、子供は子供なりに、暴かれずに眠り続ける罪は罪と呼ばれないことを理解していたのかもしれない。
あるいは、きっとその両方であった。
 欲望と誘惑に身を任せ、僕は手元にあったドアノブを、ゆっくりと音を立てないようにひねった。
 恐らくそこは、物置部屋か何かだったのだろう。ストーブだったり、あるいは扇風機の箱だったり、埃を被った花瓶だったりと、生活品からよくわからないものまでいろいろなものがごたごたに置いてあった。
 なんだか、嬉しくなった。
 散らかった物の置き方。中身のない箱。
 そんな些細なところにも、ちらほらと住人の人間味が見えてきて嬉しくなったのだ。
 ドアを開けても何も恐ろしいことはなかったこと、そして物置部屋の人間性によって僕の気分は最高だった。
 それからも、なんとなく気が向いたドアがあると、中に人がいるかドアに耳を当て念入りに伺ってから開けてみた。
 幸いか、それとも僕が真人間でいるためには不幸なことに、家の中にはやはり、キッチン以外に人がいないようで、僕はほとんど片っ端から、よそのお宅のお部屋事情を覗き込んでいった。
 僕にとって面白くないことに、多くの部屋は使われていないのか、ホテルの部屋のような、ある種の無機質感を孕んでいたが、それでも、僕はその、大げさに言わずとも犯罪に分類される行為のスリルを快楽に捉えていて、目の前にある長い廊下といくつものドアにのめりこんでいった。
 そんな事をほんの少し繰り返し、そろそろいい頃合いであろうかと玄関に向かう途中で、最後の未練であったのだろうか、僕はあるドアを開いた。
 もちろん、中にだれもいないと判断しての行動であった。
であるから、僕はドアを開けた先の光景に、何よりもまず度肝を抜かれることになる。
 部屋の中には。古めかしい大きな椅子が置いてあって。
その上には、人形のように美しい少女がちょこんと、まるでどこかのお姫さまのようにお上品に、かつ可愛らしく座って、夢と戯れているのだった。
目が離せなかった。早く逃げたほうがいいことはよくわかっているのだけれど、体が言うことを聞かなかった。
僕の目の前で眠っている少女について、まずはじめに浮かんだ感想は、先に述べたように、人形のように美しい少女、という定型文だった。
しかし、すぐに気付いたのだけれど、それは大きな間違いで、この少女の持つ艶めかしさは、その黒く艶やかな美しい髪の風に吹かれて流れる様は、そして何よりも、見ているだけで僕の神経に訴えかけてくるその少女の温かさは、どれもけして人形などにはないもので、人形と比べるなどということは少女のその魅力に、美貌に、当然のごとく少女に対し失礼極まりないことだった。
子供心に、強く彼女をかき抱いてみたい、と思った。
しかし、誰の手も届かない所に置いてずっと眺めていたいとも思った。
僕の体がそれらの欲望に負けなかったのは、ひとえに二つの欲望が相反するものであり、そしてどちらも同じくらい魅力的であったからである。
要するに、子供のちっぽけな理性なんてものは、とっくの昔、少女を見た時に既に吹き飛んでいたのだ。
そんなことをしたらどうなる、とは微塵も考えなかった。
それよりもただ、僕の目は、少女の神聖さすら覚える美貌に、凋落の美を感じさせる、どこか退廃的な可愛らしさに、そしてそれら二つを兼ね揃えた寝姿に夢中で、耳は彼女の息遣いを追っていて、肌は彼女の柔らかさを想像してうち震えていて、鼻は女の子特有のフローラルな香りに骨抜きにされていて、そして何より第六感は彼女の放つ魔性としか言いようがない蠱惑的な魅力にガッチリと捕えられていた。
僕が彼女を見つけてからどのくらいたっただろうか。
彼女を見つけてから今に至るまで、僕はずっと身動きが取れないでいた。
早く逃げたほうがいいのはわかっている。
今自分がしていることがどんなにも愚かかはよくわかっている。
だけど、僕の体はまるで、ゼンマイが切れてしまったロボットのように微動だにしないのだ。
 もっと彼女を見ていたい。
 彼女に触れてみたい。
 彼女をこの手で抱き締めてみたい。
僕は、その欲求に突き動かされるままに、長く、とても長く続いた僕と彼女の均衡を破り、そっと足を踏み出した。少しずつ、少しずつ。
今になってもあの時、どうして僕は落ち着いていられたのか分からない。
しかし、現実に僕は、とても、とても落ち着いた、そう、ちょうど子供の手を取って歩く母親のようなゆるやかな足取りで、彼女に近づいていったのだ。
そして、ついに、僕の腕が彼女の髪に触れた。滑らかな髪を一房すくい上げる。すると、それはまるで流体であるかのように僕の手の、四つの指の股をすり抜け、定位置へと戻っていった。
彼女の髪は僕の手の感覚神経を強すぎず、だけど物足りないということはなく刺激していった。いままでに経験したこともないような快感が走る。
まるではちみつと練乳をかけ合わせたかのように甘い、その快感は、一度味わってしまえばもう抜け出すことは難しく、僕はもう一度彼女を求めようとしてしまう。
それはまさに薬物の禁断症状と門を同じくする欲求であり、一度快楽を味わった僕に抗う事は出来なかった。
腕が伸びる。
指先が再度彼女の髪をすくい上げようとした瞬間、その日のなかでも、ひときわ強い風が吹いた。
開けっ放しであった窓から吹き込んできた強風は、僕の手の平から彼女の髪を吹き落していった。
そして、風は彼女の意識をまどろみから引き上げるのに十分な強さを有していたらしく――彼女の顔が、体が、ゆっくりと、ゆっくりと起き上がった。
彼女の目蓋が開いてゆく。
至近距離で覗きこむことになった彼女の虹彩は、日本人としては宝くじの一等と同じくらい珍しい琥珀色(アンバー)で、それもまた少し目にかかる黒髪と互いを引き立てあって、彼女の美しさを引き立てる。
いわば、先程までの彼女の姿は未だ、未完成であって、彼女がその眼を開けた瞬間に彼女という芸術は完成したのだ。
またも、僕の四肢は金縛りに遭ったように動かなくなる。
この瞬間、僕と彼女の関係は、圧倒的に彼女が上位にあって、僕の本能とでもいうべき何かが、彼女は捕食者で、僕が喰われるものだということを理解していた。
起きぬけに不審者と見つめあった人間が普通、どんな反応をするかなんて容易に想像がつきそうなものなのに、このときの僕の体は、まさに蛇ににらまれた蛙となって、捕食者に運命を委ね、動くことを良しとしなかったのだ。
しかし、僕にとっても幸運なことに、彼女は普通ではなかった。
見つめあうこと数秒。
彼女の琥珀色を目の前にした僕は、緊張の余りその数秒の間に地球が二回転はした気がしたけれど、とにかくその後に、彼女はその瑞々しい、どこか幼い唇を動かしたのだ。
それだけで、僕の目はその小さな、しっとりとした唇に釘付けになる。ゆっくりと彼女の唇が動き、言葉が紡がれる。
「――だれ? あなた、だれ?」
その言葉で、僕は、自分がだれであって何をしていたのかを、初めて客観的に理解した。
どこぞやのお姫様も、十二時の鐘が鳴った時こんな感じだっただろう。まさに、我にかえる、とはこういうことを言うのだ。
そう。魔法が解けたら帰らなきゃならない。
もっとも、僕のそれはシンデレラと違って純粋に自分の立場が危うくなるからなのだけど。
「また」
喉の奥から声を絞り出す。ちゃんと喋れるか不安だったけれど、どうにかそれだけを言うことはできた。
不審者にこんなことを言われて、いったい彼女はどう思ったろうか。
怖がらせたかもしれない、不気味だったかも、気持ち悪かったかもしれない。
でも、どうしても僕は、彼女とこれっきりでお別れというのでは我慢ならなかったのだ。そんな、一方的な好意の押し付け。
そして、言うことを言い終えた僕は、彼女からゆっくりと距離を離して――脱兎の如く、玄関へ向かって駆け出した。



この後、少しすると、屋敷から人の影が消えた。聞く話によれば、どこか別の町に引っ越したということだった。
しかし、いや、そのためか、僕は、それなりにいい年になっても、未だに、昔々一目見た少女のことが忘れられないでいたのだ。



「いいでしょう。あなたを採用しましょう」
そして、僕はいま、何故か、彼女によく似た黒髪に、彼女によく似た琥珀色に、そして、彼女に、本当によく似た少女に正対しているのだった。
「さて、では、貴方には、この屋敷の執事――といっても所詮間に合わせだけれども――として働いてもらうことになります」
僕は、何故かまた、あの時の彼女に巡り合って。
「では、これから私のことは」
何を言えば、何をすれば、何を思えばばいいんだろう。
「御主人様と、お呼びなさい」
 

続く
プロフィール

武中かおる

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