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琥珀の銘:1

     1

つい先日のことだ。僕が働いていた店が、店舗の移転だとかでこの町から無くなることになってしまった。そして、僕にこの町を離れる気はなかったし、そこまでバイト先に愛着があったわけではない。
 であるからには、生活費のためには、僕は、新しいバイト先を探さなくてはならない。
 だが、今までのバイト先が異常な高待遇で雇っていてくれていただけで、同じような条件でバイト先を探しても、見つかったものではなかった。
唯一見つけた、そこそこ良い条件の求人に応募したのだが、不採用となってしまった。学生で時間の都合が付きづらい僕は、そんなに便利な人材でもないのだろう。ただ単純に、面接でどこか気に食わないところがあったのかもしれないけれど。
「他のバイト、あたるか……」
 なんとなく、憂鬱な気分だった。不採用になってうれしいこともあまりないだろうけれど。
別にそこまでお金に困っているわけではなかったけれど、先のことを考えたら大して多くもない貯金を切り崩してゆくのは抵抗がある。空を仰ぐと、今日もつまらなそうに輝く太陽の陽射しが目に痛かった。もうあと二月もすれば、夏が来るのだ。彼女と初めて出会ったときと同じ、夏が。
「くそう……」
思考が頭の中をループして膿みはじめ、どこからも見放されたような気分になった。
 こうなったらダメでもともとである。やれることはすべてやっておくべきだ。そう思った僕は、いつもしょっぱい求人しか出されていない役場の掲示板に向かった。
「まあ、ないと思うけど……」
掲示板に張られた紙を片っ端から見て回る。その大半は婦人会やら盆踊りやら、町の行事についてのことで、回覧版でも見た内容ばかりだった。
その中でわずかにあった求人は二件。
一つは、商店街の個人経営のコンビニ。ここはすでに検討していて、今のところと時給は大して変わらないのだけど、そんなに長時間の仕事がもらえるわけでもなかった。とりあえず保留だ。あんまり忙しすぎて学業の方がおろそかになっては元も子もない。自由になる時間が増えたところで、勉強に打ち込む予定はなかったけれども。
そして、もう一つは。
「執事、メイド募集!未経験者大歓迎!スーツ・メイド服が似合う方よ集え!」だった。
 胡散臭いことこの上ない。なんだよメイドと執事って。喫茶店だろうか。ついにこの町にも喫茶店ができるのか。自分の容姿に自信があるわけでもなし、あんまりこういう仕事はしたくない。しかし、お給料が、破格だった。
「……これは検討してみてもいいんじゃないか」
 僕にとって、多少の恥よりも余裕を持って生きてゆくことのほうが大事である。プライドと心中する気は毛頭ない。
そして、今の世の中生きるためには先立つものが必要である。プライドよりも先立つものを。何よりも先立つものを。
「よし。考えてみよう」
立地条件。山の手の住宅地。うちの家からはなかなか離れているが、まあ通えないこともない。給料。破格である。業務内容。掃除、炊事、etc――詳しくは気軽にお尋ね下さい。その他、備考――住み込みで働ける海明学園生、歓迎。以上の条件を満たしたものは、業務内容が増えるかわり、給料に特別手当がつきます。何か質問があれば気軽に職場までどうぞ。住所――。
「何だ、これ」
海明学園。我が家から徒歩20分。自転車だと10分そこら。学力はそれなりに高め。まさしく、僕が通っている学校である。僕は今、実質一人暮らしのようなものであり、住み込みだって楽勝だ。そして、どうやらこれは本職の執事を募集しているのであって、妙な喫茶店なんかじゃなさそうだった。
「おあつらえ向きだなあ」
執事業務に経験はなかったが、そこは相手も未経験者歓迎と言っているのだから、ある程度の覚悟はしているのだろう。ならば、それに甘えてしまうのも悪くない。
「よし、とりあえずここ、受けてみてもいいかもしれないな」



メモをした住所を頼りに、件の職場へと向かう。高級住宅街の中の、見覚えのある曲がり角を曲がった先には、僕が昔忍び込んだあの家がそびえていた。
「ここ、か……」
妙な偶然もあったものだ。この家の外観は、以前とさほど変わっていない。しかし、住民はどうだろうか。「彼女」はどこかに越して行ってしまった。果たして、今の住民はどのような人間なのだろう。
もしかして、彼女が帰ってきた――?
そうであればいい。そうであってほしい。あの時より美しいものを僕はまだ見ていないから。
僕は、淡い空想を抱きながら門をくぐった。
絵に描いたようには大きくはないけれど、それでも僕の背丈よりはよっぽど大きい鉄門をくぐった僕は、いつかとは違い、堂々と庭を歩いて行った。噴水と、噴水が背負う巨大な屋敷をなんとなく眺める。今日も、空は綺麗な青色だった。そらいろ、と言うほかに、僕はこの、地球の中から見た大気の美しさを表す方法を知らない。
いつかと同じように、この庭は明るく微笑んでいて、僕はそれに後押しされるように、ニスを塗りたくったマホガニーの玄関ドアの脇に取り付けられた、色気のない電子チャイムのボタンを押した。緊張よりも幾分か高揚感が強い。
はやる気持ちを押さえつけながらすこし待ち、出てきた年配の執事のおじさんに、応接室に通された。
出された紅茶を一口、口にして、仕事について尋ねた。どうやら、家事の一部を集められたメンバーで分担して行ってゆくらしい。海明云々は、どうやらここの主人が海明と関わりがあるらしく、学校に出向いたときに何か用事を申し付けられるかもしれないということ。一人小間使いにできる人間が居れば便利、とかその程度の考えのようだ。
これなら、大丈夫そうだ。
家事全般は、一人でやっている以上、それなりにはできるつもりでいる。サボることも、コインランドリーやコンビニに頼ることもあまりしていないのでよそに出ても恥ずかしくないくらいの能力はあるつもりだ。待遇だって十二分に良い。
この家なら多少の違和感はあっても、住んでいて困ることもないだろう。
――よし、これなら。
「すいません、面接を受けたいのですが」
執事のおじさんに簡単な履歴書を渡し、そのまま面接会場に通された。まさか今日すぐにやるとは思ってもいなかったので、すこしだけ後悔にも似た感情が混ざり始める。性急すぎただろうか。
長い廊下を通り、階段を上って、面接会場を目指す。
子供のころに開けた気がしなくもない、いかにも高級、という雰囲気をばらまくダークブラウンの扉をくぐる。
ああ、僕がなんとなく覚えている頃と変わっていない。
ブラウンがベースの家に合わさって、赤い絨毯が重々しい雰囲気を作る。荘厳さ、と言うのだろうか。いや、それよりもう少し俗っぽい雰囲気だ。
そして、雰囲気に呑まれた僕が、一瞬固まったあと、顔を上げると、そこには、長い黒髪の美しい、二つの琥珀を携えた少女が、美しく、だけどちょっと可愛らしく、椅子に座っていて。
彼女だった。
彼女だ。僕の五感が、第六感が、そして僕のすべてが彼女だと叫んでいる。
見間違えようはない。見間違えるわけがない。彼女みたいな魅力の持ち主が二人といてたまるもんか。
僕のチキンハートがドラムスをたたき始めた。どうやら新曲は激しいビートが売りらしい。
彼女は、ずいぶん見ない間に本当に美しくなった。前よりも。ただでさえ異常な美しさであった以前よりも。
黒髪は光を受けて妖しく輝き、そのつやめきは、その蟲惑的なしっとりとした流れは、まさに濡れ烏という日本人の黒髪に対する最上級の
賛美を使って差し支えないものであった。きっと僕らのご先祖さまだって、この娘の髪に使うのならば何の文句もないだろう。
シックにまとまった服から覗く肌は、まるで子供のころの肌を持ってきたように肌荒れ一つなく、健康な、温かさを残した、けれど透き通るようなちょうどいい白さで、彼女の美しさの土台として、存在感を出しすぎず、だけど絶対に必要なものとして、音楽で言うならばまるでベースギターのようにそこに存在している。
そして、その眼。彼女の持つ、その琥珀――僕にとって最も印象深いその琥珀の対は、子供のころのあどけない輝きを残しつつも、歳月を経たことによるものか妖しさを増し、三秒以上見つめられる自信は僕にはなかった。真剣な目をされたら一時間くらい呼吸を止められるかもしれない。
だから、こんなに彼女が美しくなっているから、面接に向かおうというこのときに、僕は全く頭が働く気がしなかった。
しかし、ここに面接のために来た以上、僕の再起動を待たずして、それは始まってしまうのだ。
「始めましょうか」
女性にしては少しだけ低めの声が告げた。
「――お名前は?」
「桐原トモキ、です」
「そう。晦明の学生らしいけれど?」
「はい。普通科の二年に通っています」
「二年、ねえ。何組かしら?」
「B組です」
「ふうん、B。……あなた、仕事のほうはどうかしら?こなす自信はある?」
「はい。事情があって一人で暮らしているので、一通りの家事はこなせるつもりです」
なんだ。意外とまともな返答が出来るじゃないか、自分。彼女を前にした時はどうなるものかと思ったけれど、この調子で行けば乗り切れそうだ。よし。気を抜かないで行こう。
なにしろ、このバイトには僕の生活がかかってるんだ。それにせっかく彼女とも――。
「住み込みでも問題ないのよね?」
「ええと、はい。何しろ一人暮らしですので」
 ――別の面で問題は発生したが。僕の精神力が試されるわけである。
「いつから働けるかしら」
「それはもういつからでも。すぐにでも働けます」
 むしろ、余裕のある人生のためにはすぐにでも働きたいというのが本音だ。
「そう。じゃあ、いくつか質問よ。人間と動物の違いって、何かしら」
 随分とつまらなさそうな風に、彼女は言った。
なんだそりゃ。僕のイメージ――テンプレートどおりの大和撫子なお嬢様を期待していた――に反して、彼女は意外とユニークな人種なのかもしれない。思えば、僕は彼女の内面的な部分について何一つ知らないのだ。それにしても、初対面でこんな変な事を聞くって言うのは、その、どうなんだ。何の意図があるんだろう。
考えようが何もわかりそうにもないし、ゆっくり考える時間もなかったので、とりあえず、僕は質問に対し当たり障りのないところを答えることにした。
「一般的なトコロでいったら……理性があるかないか、とかでしょうか? あ、火を使えるかどうか、とかもありますね」
「あなた個人としては?」
 この質問には何か、深い意味があるのだろうか。僕が言った常識的な意見では食い下がれないらしい。
そも、僕はあまりこういう会話が得意ではない。好きではあるが、得意ではないのだ。
というのも、どうやら僕は結構に偏った考えの持ち主であるらしく、自分の考えをぶっちゃけてもあまり理解されることがない。
だから、こういう話はあまりしたくない。
したくないのだが、今の僕に話をする以外の選択肢はないと思った。適当なことを言っても、琥珀の双眸はそれを見透かしそうな気がしたのだ。
だから僕は、脳の奥底に自分用のラベルをつけて保存しておいた持論を口にした。
「なんら変わりがないと思います」
 こんなことを言うと、アレルギーのような反応を示す人もいるだろう。だから、僕には彼女がそのような人種でないことを祈る他なかった。
「そう。じゃあ、人間の定義って、何だと思う?」
 彼女の表情が変わった。少しだけ、面白がるような、期待するような声色で言ったように聞こえた。人間の定義。何がどうあればそれは人足りえるのか。犬は人ではないのか?
 誰に聞いたって、恐らくは、人でない、と言うだろう。
 じゃあ、人語を解する犬はどうか?それとも、気取ったアルミ合金のフレームに、イカした小型動力を積んで、なめらかな人工皮膚で覆った、スイックスとかセヴンなんて名前がついてるようなアンドロイドはどうか?
 ヒトの定義の順当な答えとしては、遺伝情報、だとか、人から生まれてくるもの、だとか、そんなところが挙げられるだろう。
 しかし僕は、いままで蓄えたどうしようもない考えと、今考えた理屈と、大部分の、稲光に似た思い付きをもって答えた。
「僕にとって自分と同種に見えれば、僕にとってそれは人です」
 SFの巨匠、フィリップ・K・ディックだって書いてたろ?高度なアンドロイドを殺す苦悩を。人間と見分けがつかなくなったアンドロイドを愛せる事を。だとしたら、それを、ヒトと区別することには何の意義があるんだ?
「ふうん。ねえ、よく、御伽噺とかで、人に化ける狐とか、いるじゃない。あれは?実際に見たら人に見えるでしょうけど、あれも人なの?」
 どう答えたものか。一瞬悩んだものの、すぐに、しっくりくる意見が思い浮かんだ。
「ええと、僕もちゃんと読んだわけじゃないんですけど、『変身』ってありますよね、カフカの」
「ええ。有名ね、私も読んでないけど。主人公が虫になるのよね」
「そうです。主人公は確かに、虫になった。だけど、たしか、家族からは厄介に思われつつも一応、人、というか家族として扱われたはずですし、カフカも、人として書いたんじゃないでしょうか。多分、あの話の主人公は人であって虫でもある」
一区切りして、次につなげる。自分でも、なんで面接に来てこんな話をしているのか、わからなかった。
「だから、人を装うことに成功したものは、たとえば、玉藻の前だって妖狐であり、人間であったんだと思います」
「ふうん。頭のいいヒトはDNAだのなんだのを持ち出すと思うけれど。そのほうがはっきりしてるじゃない」
「安倍清明、たぶん、知ってますよね」
僕の口はすらすらと動く。今の今まで居場所を持たず、乱暴な堰で抑えていた僕の片鱗が、ようやく見つけた安住の地へと、僕の脳のきっと深くから、不器用な口を通して、それでも勢いをそのままに、押し寄せていた。
「もちろん。有名だものね」
「物語の中の話ばっかりで申し訳ないですけど、あの人、母親が狐だったはずです。もしそんな狐がいたら、DNAなんて意味を成さないでしょう?それに、僕は、ヒトの形でヒトの言葉を使うものを、遺伝子の違いだけで割り切れません」
「ふふ、なかなか夢想家ね。でも、そう、はは、そうなの!」
今の会話の何がお気に召したのだろうか。彼女はうれしそうにひとしきり笑うと、執事さんのほうに向きなおった。
あわよくば、僕の考えの「偏り方」が、つまりはアイデンティティが、評価されているのであってほしい。それは、僕と同じことが出来る人間ではなく、僕個人が求められていることに他ならないから。
そしてそれは、自我を確立した人間の多くが、本当に多くが求めてやまないことのはずだ。
「正樹さん、決めました。採用するわ。条件もいいし」
「そうですか。分かりました、後のことはこちらで」
「お願い」
 また僕のほうに向き直る。さっきとは打って変わって冷静な表情だ。
「いいでしょう。あなたを採用しましょう」
――そして、今に至る。
「さて、では、貴方には、この屋敷の執事――といっても所詮間に合わせだけれども――として働いてもらうことになります。――では、これから私のことは」
「御主人様と、お呼びなさい」
哀しいような、嬉しいような、それともにやけ顔に通ずるもののあるような。不思議な笑顔を持って、彼女は、ご主人様は、付け足すのだ。
「あなたの言葉、なかなか素敵ね――私みたいのにとっては」



「さて、では仕事内容だけれども」
 それはさっき執事さんに確認済みだ。
「はい、それはもう執事さんに聞いてます」
「ああ、正樹さんに聞いたの。今日はまだいいけれど、明日からはあなたも執事よ? ちゃんと名前を覚えておきなさい」
「はい」
執事。いざ自分がそう呼ばれると不思議な響きだ。
「一応確認しておくわね。あなたの仕事はこの家の家事一般と私のお付。家事はあなたのほかにもう一人メイドを雇ったから、正樹さんを含む三人で分担しなさい。外に出る時はあなたについて来てもらうことになるわ。まあ、別に私は有名なわけじゃないし、一応の保険よ。ただの荷物持ちと思ってくれても構わないわ」
有名じゃなくても確実に彼女は外見で目立つだろう。これはなかなかつらい仕事になりそうだ。
それにしても、外出時のお付というのは初耳だ。日中は学校に行く僕にそんなことが出来るのだろうか。
「はあ……しかし、僕は一応学生ですので、御主人さまが外に出るような時に家にいないことも多々あるかと思いますが……」
「ああ、そこは聞いてなかったのね? ふふ、正樹さんの悪戯かしら。そのことだけれど、何も問題はないわ」
一拍おいて、御主人様は本当に楽しそうに言う。
「私も、あなたと同じところに通うんですもの」
え?
「だから、たぶんあなたは主に学校でのお付を担当してもらうことになるわ。まあ、学校で使用人に頼るようなシチュエーションはそうそうないと思うけれど。お父様が心配性でね?休日やなにかは、メイドについて来て貰うことになるわね」
女性しか入らないようなところもあるわけだし、と悪戯っぽい笑みを浮かべながら彼女は続ける。
なるほど。家の主人が海明と関係があるとは聞いていたけれど。
「え、じゃあ、この家の主人って言うのは」
もしかして。
「私のことだけど?」
 なんともまあ。こんな屋敷の主人と聞いて髭をたくわえた西洋紳士を想像していたものだが、まさかこの少女だったとは。
「ふふ、こんな小娘がこの家の主人で驚いたかしら。ああ、あと、学校では流石に目立つから、私のことは普通に名前で呼んでくれていいわよ。ああ、そういえば自己紹介がまだだったかしら。篠宮シズネ、年はあなたと同じ。これからよろしく」
「――はい。よろしくお願いします」
 正直、この一時間で急転した僕の生活に僕の頭は付いていってなかったが、反射的に相槌を打った。
 超を五回つけても足りない美少女と同棲して同じ学校でしかもストーカーのようについて回ることになるわけで。
 そしてその美少女は憧れていた女の子なわけで。
学校での周りの目だとか彼女にたかる虫を払うのが大変そうだとか煩悩退散だとか、そんな考えが脳内を飛び交った。
「ああ、そういえば私、あなたと同じクラスに入るから。越してきたばかりでまだ通学していなかったのよ」
まあ、そりゃあそうだろう。いちいち別のクラスまでお嬢様の様子を見に行かなきゃならないなんてのは控え目に言っても苦行の類に分類されるだろうし、お嬢様だってそんなことで悪目立ちしてはやりづらいだろう。
「じゃあ、此処の家に、あなたの必要なものを運んでしまいなさい。正樹さんに頼んで車を出してもらうから。まだ日は出てるし早いほうがいいわ」
「……はい」
こうして、なんだか勢いに飲み込まれるようにして、僕の新しい仕事が決まった。



「ええ、と。今日からお世話になります」
「はい。よろしくお願いします。桐原トモキ君でしたか。私は、三瀬正樹といいます。三瀬でも正樹でもどちらでもお好きなようにお呼び下さい。執事長、と呼んでくれてもかまいません。私、その呼び名に少し憧れていたものでして」
はあ。
三瀬正樹、さん。初老の男性で、年齢の割には背が高い。きっちりと整えられた白髪は身に纏うスーツの黒とマッチして、見るものに清潔感を与える。
まさに、絵に描いたような執事だ。
ただ、主人である彼女と同じでなかなかにお茶目な人ではあるようだが。
「じゃあ、執事長って呼ばせていただきますね」
「はい。ありがとうございます」
 彼女――ご主人様の言いつけで、正樹さんに車を出してもらった。行き先は僕の家だ。
 執事付きの家の車と聞くと、リムジンかなんかを想像しがちだが、僕の想像とは違い、普通のセダンだった。とはいえ、かなりいいモデルではあったが。
正樹さんはダークグリーンのセダンを、丁寧に、滑らかに動かし、その車体を住宅街の中に滑らせていった。
「ええと、この辺りでしょうか」
「ああ、はい。そこの突き当りを右に行ったところです」
見慣れた風景が窓の外を流れる。何の変哲もない、同じようなデザインの家が並ぶ住宅街。
住民でなければほぼ確実に迷うであろう、どこの町でもさして変わらない眺めだ。
その中に、ぽつんと一つだけ周りから浮いた空気を放っている家が一つ。周りの家と比べて一回り年上のその平屋が、僕の家だ。
入れる車もなくなって久しい庭――昔は父親のセダンが置いてあったのだけど――に、車を止めて、僕らは、家の中に入った。
「よろしければお手伝いさせていただきますが?」
「あ、すいません。そうですね、でも服くらいしか持って行くようなものはないので、大丈夫です。居間かどこかでゆっくりしててください」
「そうですか。では、そうさせていただきます」
執事長を居間に通して、僕は自分の部屋へと向かう。
洋服箪笥を開け、片っ端から服を旅行鞄に詰める。
ちょっと適当だけど、こんなものだろう。何か足りなくなったら、取りに来ればいい。
あとは、ノートPCと充電器。それと、通帳に印鑑、保険証、あとはちょっとした書類の束。残念だが、秘蔵の本とDVDはそのまま部屋に隠しておくことにしよう。屋敷に持って行ってお嬢様に見つかったら悲惨すぎる。想像するだけで恐ろしい。
「執事長、用意終わりました」
居間に行って執事長に声をかける。
「早いですね。もう、よろしいですか?よろしければ参りましょう。今日中に仕事の打ち合わせもしたいところです」
「はい」
止めてあった車に乗り込み、家を出る時に、僕は一筋の憂鬱に気付いた。
初めて生まれ育った家を出て、違う家で暮らすということが、僕には、今までの、生まれてからずっとこのときまでの、幸せだったことも、苦難に満ちたこともひっくるめた、僕の人生全てへの裏切りのような、気がしたのだ。



「では、今日からこちらの部屋を使ってもらうことになります」
「あ、はい」
 屋敷の、一階にある部屋に案内された。
部屋に入って周りを見回す。この屋敷らしいというかなんと言うか、予想にたがわず、広く、アンティーク調の調度でまとめられた、お洒落で威厳ある一室だった。
「そこに制服が出してあります。靴のほうは、後日サイズに合った靴を用意しますが、とりあえず今は持ち合わせの靴を使ってください。荷物を置いて着替えたら、食堂まで来て下さい。食堂の場所、分かりますね?」
「ええと、ここに来る途中にあった場所ですよね」
「はい。では、失礼します」
 執事長が、静かにドアをくぐり、そしてやはり静かに、ドアを閉めた。
「ふう……」
 荷物を適当な場所に転がし、上着を脱いだ。
 ベッドメイクがきちんとされた、ホテルにあるようなベッドに倒れ込む。体のほうは大して疲れていたわけではないけれど、一日にいろんなことがあり過ぎて、すこしだけ休みたい気分だった。
 僕は一体、何をしてるんだ?昨日の僕は、まさかこんなことになるなんて思ってもいなかった。ベッドに寝転がる自分にも違和感を感じた。こんな大きなベッドは初めてだ。なんだか落ち着かないくらい。だけど、こんなこともすぐ、慣れてゆくのだろうか。少なくとも、今の僕にとって、明日もこのベッドで寝ているのは確かだった。もちろん、何があるかはわからないわけだけど。
 いつまでもこうしているわけには行かないので、気合を入れてベッドを降りて、制服を手に取った。
渡された制服はなんてことはない(といってもそれなりにいいものなんだろうが)白いワイシャツに、黒のスラックス、黒い靴下である。それに黒のベスト。出来るだけきちんとした身なりを目差し、だらしない着こなしにならないよう服を着替える。
「なんか似合わないなあ」
 鏡に映った自分を見ると、どうも服が浮いているように感じる。所詮、僕は血統書もついていない一般人なのだ。
「まあ、しょうがないか」
 これが制服なんだから仕方ない。急いで食堂に向かおう。
そうして僕は、脱ぎ散らかした服を適当にまとめ、部屋を出た。



「執事長?あれ、いないんですか?」
食堂に行ったが、執事長はいない。早すぎたのだろうか。
「あ、ちょっと待っててくださーい」
 僕の声が聞こえたのか、隣のほうからのんびりとした風な女性の声がした。言われたとおりに待っていると、どたどたと、お上品とはいえない、しかし不快ではなく、どこか愛嬌を感じさせる足音が聞こえてきた。足音はこちらの部屋に近づいてきている。
大きくなっていく足音に耳を傾けていると、食堂に一人の少女が飛び込んできた。
女性にしては高めな背、どこかの美の女神に微笑まれたかのような豊満なお身体、美しさと可愛らしさにパラメータを等分したような顔つき、そしてなんだかぽややんな表情。豊満な体を、ダークグレイ地にホワイトのエプロンとヘッドドレスが映えるシックなメイド服で隠したこの女性は、おそらく先ほどの声の主だろう。
一秒だろうか、二秒だろうか。それとも実は、ほんの一瞬だったろうか。どれくらいの時間だかわからないが、僕は彼女に惹きつけられて、見惚れてしまっていた。なんだかとても抗いがたい力が、僕の意識を彼女に釘付けにしたのだ。
初めてお嬢様を見た時と似たような感覚。あの時ほど長くはなかったけれど、それでも僕は時間を忘れて彼女を見つめていた。
何かが惹きつけられる。目は釘付けになり、そして、あのときとは違って、腹と胸は、はちきれそうな何かを抱えて切なく張り裂けそうだし、喉元には、むずがゆいような、暖かいような、そしてやはり、切ないような塊がこみ上げている。
とにかく、今は仕事中だ。しっかりしろよ。
体の制御権を手に入れて、落ち着きを取り戻したところで、メイド服のぽややんな彼女が口を開いた。
「ええと、お話は聞いてます、新しく入った桐原君ですよね?」
「あ、はい」
「私もついこの間雇われたばかりの新人なんですよ。これからよろしくお願いしますね」
 そういえば、ご主人様から聞いた気がする。
「そうなんですか、よろしくお願いします。ところで、お名前を教えてもらってもいいですか?」
「ああ、すいません、自己紹介してませんでしたね。ええと、小鳥遊ミノリといいます、先日からこの屋敷で働かせていただいてます」
「ええと、タカナシ、さん」
 続く言葉を口にしようとした僕を、彼女の遠慮がちな声が遮る。
「ええと、あの、出来れば、名前で呼んでもらえないでしょうか」
 なんともまあ。僕はもちろん童貞なので女の子を名前で呼んだりなんか恐れ多くてたまらないのだが。
「ミノリ、さん」
 少し照れ臭かったけれど、平静を装って名前を呼んだ。
「はい、ありがとうございます」
「それで、僕は何をすればいいんでしょう?」
「今から夕食の準備を始めるので、こちらを手伝ってもらえますか?この時間帯は他にはやる事はないはずです。あ、お料理とか、大丈夫ですか?」
「まあ、それなりには」
「じゃあ、大丈夫ですね。私たちは仕込みだけですから」
「はあ。料理人……がいるなら、仕込みはしませんよね。誰が?」
「あはは。ここの家は、どうもそういう、いわゆる「お金持ち」然とはしていないみたいですよ。雇われてるのは今のところわたしたちだけですし。あと、料理を作るのは執事長です。絶品なんですよ、あの料理」
 顔が幸せそうだった。どうやら執事長の腕前は、あとで思い出して顔を緩めるほどのものらしい。
「へえ、楽しみですね」



「トモキくんは」
僕の手の中でジャガイモ様が余所行きの衣装をはだけてゆく。きっと野菜裁判所では、幾人もの野菜の衣をひん剥いたピーラーは無期懲役どころの騒ぎじゃないだろう。
傍聴人席の新じゃがが、土の付いた人参が、中身の入ったペットボトルやバールのようなものをピーラーに投げつける。そして裁判官の、先が二股に割れたそれはそれは雄雄しい、豊作を象徴する大きな大根様が、その手に握った木槌を叩きつけ――
 野菜様たちの歓声が響く。彼らはこれ以上ない勝利を手に入れた。しかし傷を負った野菜様たちの心は二度と取り戻されることはない。
 なお、包丁様は未だに野菜警察の手を逃げ延びている。ウォンテッドである。
「はい?」
「何でこのバイトを?こういっちゃなんですが、普通は来ませんよね、こんなとこ」
 お家もあるはずですし、と付け足す。
 暗に、自分には普通でない理由があると言っているのでもあった。
「ええ、まあ」
 ピーラーを包丁に持ち替えながら答えた。僕たち、お手伝い連合にとって共通の話題は確かにこれくらいしかなく(僕の発想が乏しいだけかもしれないが)沈黙と野菜様を脱がしてゆくあられもない仕事の退屈に耐えかねたミノリさんが、少し不躾な質問を口にしたのも、もしかしたら仕方のなかったことなのかもしれない。あるいは、彼女がただぽややんなだけで、もし彼女がこの質問をされても一向に気にしないだけであった。
「うち、家族いないんですよ、前にちょっとあって。それに、家も遠くないので何かあってもすぐ帰れますし」
 顔を上げて、なんとなくミノリさんの顔を見るのも気恥ずかしくて、ミノリさんの手元を見ながら答えた。彼女は手際よく、ジャガイモの芽を取っている。
 ミノリさんが、顔を手元に向けたまま、失敗と苦味の混ざったような顔をした。
「その、すいませんでした」
「事実ですから」
大丈夫ですよ、と、できうる限り柔らかい表情(自分では見えないが、柔らかい表情ができていたはずである)で付け加えた。
 こちとら何年も似たやり取りを繰り返しているのだ。
「それで、一応お金のほうはそこまで困窮しちゃいなかったんですが、一応この先のお金を用意したいので。ぼくにとってすごくいい条件なんですよ、ここ」
「そうなんですか」
 こんな時、「大変だね」と、同情のこもった表情と口振りで言ってくれる人が、数え切れないほどいる。この言葉を言われた回数なんて僕はそれこそ数え切れない。可哀そうな僕に同情してくれているのだろうが、僕は自分のことを可哀そうだなんて思っちゃあいないのだ。
 だから、そんな彼女だから、その言葉がきっと失礼に当たると思える彼女だから、このとき僕は、ほんの少し、ミノリさんに、きっと一方的な好感を持った。
 あるいは、彼女はきっと、ただ単にぽややんなだけであったかもしれなかったが。
「私は」
一瞬だけ躊躇ったような間を置いて、ミノリさんが、その瑞々しく可愛らしい唇を開いた。なお、先ほどよりミノリさんの行動に色眼鏡がかかり始めている気がしなくもない。後で外しておこう。
「シズネちゃんとは、親戚なんですよ」
「はあ」
 そういえば、どことなく似通った物はあるかもしれない。顔立ちも、身の丈も、雰囲気も何もかもが違うが、そう思った。どこだろう。――匂い?あの部屋で少し香った匂いと、今僕の鼻が感じる匂いは似ているかもしれない。使っている香水でも同じなのだろうか?
「それで、私が上京することになったので、ここに置いてもらってるんです。大学生なんですよ、私」
なるほど。よくある話と言えばよくある話だ。わざわざこっちまで来てるということは、やはり結構いい大学に通っていたりするのだろうか。
「へえ、大学、ここらへんなんですか?」
とはいえ、直に大学名を聞くのはためらわれた。僕はまだ大学受験なんてのを経験していないので分からないが、コンプレックスを持っている人も少なくないようだし、初対面でずけずけとそんな事を聞く勇気はなかった。
「そうですねえ、ちょっと離れてますけど、通える距離なので。大学の近くはお家賃も高いですしね」
 話しながら刃物を扱っていたのが悪かったのか、それとも、ふ、と香ってきたミノリさんの柔らかな香りに気を取られたからか、手先が狂って、じゃが芋を持っていた左手を少し切ってしまった。深さこそないが、血がにじみ出てくる。
「大丈夫ですか?見せてください!」
 ミノリさんが、慌てたような、あせったような様子で僕の手を取った。
 彼女は、一瞬、傷口を見つめたあと、僕の口を、ゆっくりと、ためらうように、それとも惹きつけられるように、指に含んだ。
僕は、何がなんだかわからなくて、声を上げることも出来ない。普通、会ったばかりの人の指を口に入れるものか?相手が美少女なこともあって、そりゃあ僕には、不満こそないが、それでも違和感を覚えた。
指を口に含んですぐ、血の味に、彼女は驚いたような、もしくは苦味に顔をしかめるような顔をした。
そしてすぐに、彼女の舌は僕の指を念入りに舐った。
舌が傷を舐める。舌先が、そっと、傷口に割り込むように触る。
恥に思うべきなのか、(僕にとって)驚くべきことに、このとき僕は、痛みではなく痺れるような快感を感じていたのだ。
彼女の小さな口ががそっ、と開く。指を曲げたいような衝動に駆られたが、まどろみの中にいるように、体を動かす気にならなかった。
彼女が一瞬こちらを見上げ、僕の指を甘噛みした。
唇のやわらかい感触に、指に触れる舌の暖かさに、やさしい歯の感触に、僕は吐息を漏らした。
すると、僕も彼女も我に返ったように、僕は思考がまともな動きを取り戻すのを実感したし、彼女は僕の指を口から放すのだった。
「救急セット、取ってきますね」
 そう言って、彼女はぱたぱたと駆けて行った。
 彼女が救急セットを取って戻ってきたときには、僕もミノリさんも、まるで何もなかったかのように、落ち着いていた。



「ああ、申し訳ありません、ひとつやることがあったのを忘れていまして」
 丁度、僕が一通り作業を終えたとき、執事長が、その引き締まった体を規則正しく揺らして、食堂へ入ってきた。
「もう始めていましたか。これは申し訳がありませんでした。もう自己紹介は済ませましたか?」
「はい」
 ミノリさんが、その独特の、柔らかな発音で持って答える。
「下ごしらえも、大体終わりますよ。今日はこれでいいんですよね?」
 ぽやぽやしてきた。もしかしたら彼女の前世は偶然繋がった電話から呼び出せてしまったお助け女神様かなんかじゃなかろうか。ああっミノリさまっ。どうか私めを下僕にしていただきたい。
「ええ、そうです。では、下ごしらえが終わったら、あとは私がやりますから、小休止して今後の打ち合わせと行きましょう」



「では、明日からはこのように。まあ、基本的に、ですので、その時々にあわせて柔軟に対応してください」
 執事長が調理場に来てから二十分足らずで僕たちの初仕事は一区切りがついて、そのまま仕事の割り振りを行ったわけだが、僕に与えられた仕事は主に、屋敷のお掃除であった。この広大な屋敷のお掃除。たまらない。
 といっても、平日はご主人様と学校へ向かうので、帰宅後に少しと、主に休日である。まあ、部活動のようなものであると考えれば、さほどの労働ではないだろう。
「……よし」
 なんとか、やっていけそうだ。具体的になってゆく新生活に、充実した予感を感じて、気持ちがはやる。
「では、私は夕食を作りますので、お二人は夕食まで休んでいてください。準備ができたら、お呼びします」
なんと。果たして、本当に、僕はここの執事もどきなのだろうか。
 執事長は料理が得意らしいし、こだわりを持っているのかもしれないが、少しだけ居心地の悪さを感じた。新しい環境っていうのは、苦痛を伴わない程度の適度な忙しさがあって、仕事に気を取られているうちにいつの間にか馴染んでいる、くらいのものが理想的なのだ。とはいえ、自発的に何かしようにも、僕は屋敷の勝手がまったくわからない。居心地の悪さに甘んじるしかないのだろう。
「トモキくん?」
 振り向くと、ミノリさんが遠慮がちに、僕のワイシャツの袖を引っ張っていた。人懐っこい人なのだろう。何もかも計算づくでやっている人もいるが、ミノリさんはそうではないと信じたいのが、たぶん、僕が女慣れしていないということなのだろう。
「はい、なんでしょう?」
「いえ、ぼーっとしてたので。お休みだし、部屋に戻りません?」
「そうしましょう」
 執事長に見送られ、ミノリさんに引かれるままにして廊下に出る。
彼女が僕に与える、無防備に似て、どこかなれなれしさに似たところもある、特有の感覚。きっとこれは、振り返り、初めて気付く幸福で、どこか、遠い昔に感じた母性を思い起こさせた。
 その心地よさから、僕は、部屋に着くまで彼女の手を振り解けずに、きっと外から見たらだらしないであろう顔を振りまいた。



 少しばかり居心地の悪い休憩時間となってしまったが、いい機会なので、少ない荷を解き、部屋に配置してゆく。服を箪笥に。書類を机に。あてがわれた部屋を僕に最適化して、ベッドに腰掛けた。胸の奥から、寂寥感と不安と、少しの期待を織り交ぜたような感情が湧き上がる。
 僕は、今日からここを閨にするのだ。
 お気に入りの置時計や、まっさらな机に置かれたデスクトップカレンダー、壁に掛けた小さな額が、ここは僕の部屋だ、と語りかける。ベッドの上から見る風景は、かつての僕の部屋と少しの類似を持ち、今になってようやく、僕はきっとこの家の住民になろうとしたのだ。
 腰を上げて、持ってきたミニコンポの電源を入れる。無愛想に、いつ見ても同じ顔をしている右向きの三角形をつついた。両脇の小型スピーカーが、その身を揺らし、空間を怒鳴りつけた。コンパクトディスクは今日も変わらず、きっと、既にその顔に皺を刻み始めただろう青年の叫びを撒き散らす。
 お気に入りの曲をリピートさせて、ベッドの上で、とりとめもないことを考えていると、ノックの音が割り込みをかけてきた。
「はい」
 曲を止め、ドアに向けて呼びかける。ドアが、少しの負荷に、小さな軋みを上げながら開いてゆく。
「今、いいかしら」
ドアの向こうには、ご主人様が、黒い、暴力的なまでの美しさをたなびかせてそこにいた。
「はい、もちろん」
もちろん、雇い主の言葉に初日から逆らえるまでもないし、何より僕の部屋に美少女が来るのだ。逆らう理由がないではないか。
「そう硬くならないでいいわよ。ミノリさん、会ったでしょう?彼女みたいに、のほほんとしてればいいの」
「はあ」
「暇なのよ。話がしたいの。堅くなって、一般論しか話さない人を相手にしゃべっても面白くないでしょう。それじゃあ、あなたみたいなのを雇った価値もなくなるわ」
 なるほど、もしかしたらあの面接は、僕の暇つぶし要員としての能力を測っていたのかもしれない。複雑な気分だ。僕の固有性は、暇つぶしのために求められていたのかもしれなかった。
「だから、何も憚ることなく話しなさい。これは雇用主からの命令よ」
 彼女を見る。優美の中に妖しさを潜めた、柔らかな微笑み。しかしその表情はどこか、いたずらっ子の満面の笑みを想起させる。
 彼女の笑顔と、ちょっとした、皮肉っぽいジョークに、表情筋が自発的に微笑を作った。ああ、彼女ってそういう人なのか。
「それはいいですけど、パワーハラスメントには気を付けてくださいよ」
僕の同意を得て、微笑を満足げなものに変えると、彼女は軽く部屋を見回した。
「あら」
 彼女の視線がベッドの上のリモコンに注がれる。
「音楽を聴いていたの?」
「ええ。特にすることもなかったので」
「へえ、あなたはどんな曲を聴くの?あなたみたいなヒトは、どんなものが好きなのかしら」
 そうだ。彼女は僕のことを何も知らない。そして、僕も彼女のことを知らない。
「……はい。ご主人様のことも、僕に教えていただけるでしょうか」
「ええ。だから、あなたは私を感じ取り、あなたが判断しなさい。そうよね?」
そうだ。僕の中でも、それはその通りだ。世界を作るのはいつだって自分だ。
「はい。僕の中に出来るご主人様が、ご主人様と違わないものになるよう願っておきます」
 僕らはきっと、お互いにすごく捻くれているのだ。わざわざ遠まわしな、ぼやけた言葉を放ち、そして相手のレベルを探る。僕はきっと、試されていた。僕らにとっての、僕らみたいな考え方をする人間にとっての基礎を理解しているかどうか。
 僕はきっと、ついていけたはずだ。手ごたえがある。大丈夫。
 ここは、この回答でいい。
 こんな会話、本当はなんてことはない。ただお互いに、これからよろしく、と挨拶を交わしただけなのだ。
 捻くれている僕は、もう一度リモコンのボタンを叩いた。音量をすこし下げるのも忘れない。一昔前のポップスは、あまりBGMには合わないかもしれない。それっぽいクラシックとか、ジャズかなんかを聴く趣味があれば良かったのだけど。
「結構前の曲なんですけど、知ってます?」
「ええ。この曲、割と好きよ」
 スピーカーの叫びを聴きながら、ご主人様が意外な言葉を口にした。
「へえ、ご主人様は、こういうのも聴くんですか」
「ひとまわり古いのが好きね。意外かしら?最近の音楽は嫌いなのが多いのよ」
「いえ、こんな家に住んでいるので、やっぱりクラシックか何かかと」
 テンプレートどおりの、お金持ちのお嬢様の一方的なイメージ。
「クラシックも聴くわ。けど、これも好き。小さな頃、テレビで流れてたわね」
 微笑を浮かべて彼女は口にした。
女を失った男の叫びに僕と彼女は共通点を見つけた。喜ばしいような、縁起の悪いような。僕にとって彼女はすでに、偶像の一つとなっていて、手が届くものではなかった。会えるものなら会いたいと思ってはいたけれど、そう思っていた時点ですでに、彼女は会えるものではなかったのだ。それが、急に手の届くところに来たものだから、僕は戸惑うほかなかった。再会した彼女は本当に美しくて、僕の中の偶像よりも魅力的なのだけれども、そもそも、彼女が目の前にいるということに慣れていないのだ。
その後、ご主人様と一般的には取り留めのない、しかし僕にとっては本当に大切な話をしているところに、正樹さんの号令が掛かり、僕等は夕食に舌鼓を打った。
正樹さんの料理は大変美味であったが、慣れない環境(なんと雇用主の美少女と同僚の美少女に囲まれて)での食事であったために、あまり料理の味に気を払えなかったのが残念だった。
そして、雑事を済ませると、加速度的に僕の生活が奇妙になった一日が終わる。

続く
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