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琥珀の銘:3


     3

 僕がお嬢様の屋敷に住むようになって、二週間近くが過ぎた。仕事にも慣れたし、お嬢様もある程度は学校に馴染んだし(とはいっても、未だ、教室では基本的に僕とつるんでいるのだが)、ミノリさんともそれなりに仲良くやっている(最近、彼女が僕に敬語を使うことが少なくなってきた)。順調な日々である。
今日も、いつもどおりの晩御飯を済ませて、僕とミノリさんは居間でお茶をしていた。テレビには(この家は外見ほど貴族をしていないので、居間にはちゃんとテレビが置いてあるのだ)クイズ番組が映っていて、僕の知識のなさを突きつけてくる。それに反して、向かいにいるミノリさんなんかは意外にも、見たこともないような漢字だって読めたりするのだ。
 ホットケーキに、赤いジャムを載せて齧った。ジャムはミノリさんのお手製だそうだ。透き通っているようでその実くすんでいて、そう、ちょうど月のような赤色をしている。
「あのね、トモ君?」
「はい?」
「今度の日曜日、一緒に出かけませんか?特別なお仕事とか、無いよね?」
「ええ、ないですけど、どこか行きたいところでも?」
 日曜日はちょうど、ほとんどやることがなかったはずだ。土曜日のうちに終わらせておけば問題ないだろう。
「ええ、トモキ君とデートしたいかな、と思って」
 ちょっとむせた。悟らせない。絶対に彼女には悟らせない。強引に咳を押さえ込んで、自分でもちょっと変だと思う声色で言葉を返した。全然隠しきれていなかった。我ながら情け無い。
「そうですか。どこに行きますか?」
「ええっとねえ。実は決まっててねえ、わたし、まだここに来て日が浅いから、この家の周りしかよくわからないの。それで、トモ君とお散歩しながら教えてもらえたらいいなあ、と思って。トモ君、この町の生まれだよね?」
「ええ、まあ特に詳しいわけじゃないですけど、そういうことなら。何時ごろ出ますか?」
「そうねえ。せっかくだからご飯は外で食べましょう。確か正樹さんとお嬢様もお出かけする日だから、ご飯は作らなくてもいいはず」
「わかりました。じゃあ、十時半ぐらいに出ましょうか?」
「んん、それじゃつまらないから、駅前の噴水で待ち合わせにしましょう、デートらしく。じゃあ、十一時に噴水ね」
「はい」
「じゃあわたし、部屋に戻りますね」
「はい。洗い物はやっときます」
 しとしとと、柔らかな足音を立てて、彼女は居間を出た。
「どうしよう」
 デートだってさ。何を着ていこうか。何処を周るべきだろうか。なんせ僕はまったく女性がらみのことに関して経験の無い、情け無い童貞野郎なのだ。一体何をすればいいんだかわかったもんじゃない。とりあえず変に気合の入った格好では行かないようにしよう。それと日曜日までに、おしゃれで、お手ごろで、ついでにおいしいお店を探しておかなくては。
そういえばミノリさんって、どんなものが好きでどんな店に行くんだろう。彼女はどんな服を着てくるだろうか。
まずい、考えてたらちょっと欲情してきた。



「ということで、ここらへんでおしゃれでお手ごろなおいしいメシ屋を教えて欲しい。いいか、おしゃれなとこだぞ?忘れんな?ユーコピー?」
「アイコピー。それはいいけどさあ、何でお前そんなに強気なの?なんかあった?」
 僕は、「デートのことなら彼女持ちに聞けばいいじゃない!」という結論で、彼女持ちのモテるメンズに情報を聞きだすことにしたのだ。
「ないこともなかった」
「女だな?誰とデートすんの?篠宮?」
「いや、シズネちゃんじゃないけど……」
 お嬢様。そうだ、僕はお嬢様の事をまったく考えていなかった。もしかして、ミノリさんとデートをするというのは、僕とお嬢様の関係において特別な意味を持つのだろうか?
 いや、そんなことは無いはずだ。彼女が僕の事を特別に想っているとは思えないし、そうなればあとは僕の問題でしかない。
 僕は、お嬢様を……どう思っている?ずっと彼女の影を追いかけてきた。これまでにもたいして女の子を追っかけたりしなかったのも、心のどこかで彼女と比較していたからだ。失礼な話だが、なんせ、彼女と比較してしまったらどんなアイドルだって霞んでしまう。だから僕は、なんだか身が入らなくって、あまり女性に男性として関わらないようにしてきた。
まあ、それでも、至近距離での接触により、若い衝動に負けミノリさんの女性を意識してしまったが。いや、ミノリさんだって十分に美しいのだ。それは間違いない。
 ――それに、彼女は何か、お嬢様と同じ匂いがするのだ。
しかし、そうだ、そうだった。僕は彼女を追いかけている。だけどどうだ?果たして僕なんか彼女と釣り合うだろうか?
そもそも僕は、なんでお嬢様を追いかけているんだ?僕にお嬢様を追いかけさせているこの感情は、なんだ?
「へえ、じゃあ誰だ?どんな娘?俺知ってる?いつ?」
「今のバイト先の同僚。お前は知らないよ。年上で、おっぱいが大きい。ついでに背が高めの美人。日曜日に出かけることになってる」
「完璧じゃないか。紹介して!」
「だからその娘は僕とデートするんだって言ってんだよあとおまえは彼女いるだろ!」
「愛があれば大丈夫!」
「大丈夫じゃねえよ!二つ以上あったら問題だろ日本は!」
「大丈夫!籍を入れなきゃ日本なんて関係ない!俺と彼女の問題だから!」
 この馬鹿はどうしたものだろうか?一、二発ぶん殴ってやれば世間様に溶け込めるようになるだろうか。
「なに、騒がしいけど何の話をしてるの?」
「おじょ……シズネちゃん?」
 素が出かけた。椅子に座ったまま首を横にやると、僕の横に、すら、と、お嬢様が立っていた。
「篠宮?いや、日曜日こいつがデートをするって言うからね?おすすめのスポットなんかを教えてたわけですよ」
「へえ、デートするの?誰と?」
「バイト先の同僚だって。知ってる?」
 罪悪感に似た感情が走る。あまりシズネちゃんには話したくなかった。秘密にしておくこともそもそも不可能なのだけど、面と向かって話すには、なんとなく、気まずいのだ。陰で伝わっていてもそれはそれで複雑なのだけど。
「ああ、ミノリさん?あら、あなたたち付き合ってたの?」
「いや、付き合ってるわけじゃあないけど」
 僕の口から出るときに、少し、言葉がぶれた。堂々とこんな宣言をするのは、少し情けないように思えたのだ。
「ずるい。不公平だわ」
「え?」
「男女交際してないならミノリさんも私も立場は同じでしょう?なのに私がつまらないお付き合いをしている間にミノリさんはデートなんてずるいじゃない。不公平だわ。それなら私もデートがしたかった」
 ちょっと待て。その理屈はどこかおかしい。
「いや、デートって言ったって、この辺を案内するだけで、ミノリさんはそんなつもりじゃないと思うけど……」
 そうなのだ。そりゃ僕もミノリさんと二人でお出かけという事態に浮かれはしたけれど、そもそも彼女が僕に好意を抱いているかどうかはわからないのだ。ほんの冗談でデートなんて言葉を使っただけ、ということだって考えられる。むしろ、そうだ、といわれたほうが自然でさえある。
「ミノリさんと二人で出かけるんでしょ?それで二人でデートスポットにも行くんでしょ?」
「おしゃれなメシ屋を聞いてきたくらいだもんなあ」
「そんなの、立派なデートじゃない。やっぱりずるい。ねえ、今度の土曜日は私に付き合いなさいよ。最近羽根を伸ばしてないのよ」
「退散っとぉ……」
 花村が、こっそりと席を立ち、廊下のほうへ向かった。
「おいなんで逃げるんだよ!」
「馬には殺されたくない!あとは、お前の物語だ!」
「いいから!トモキはこっち!ねえ、土曜日は朝から出るわよ!」
「屋敷の仕事がありますよ」
 これはあまりクラスメイトには聞かれたくないので(もちろん、僕にとっては今までの会話も出来ることなら聞かれたくなかったが)小声で囁く。
「別にいいわよ。一週間ぐらいほっといたって、別に屋敷は崩れやしないわ。洗濯はミノリさんがやるし、料理は正樹さんがやる。別に問題ないでしょう?」
 それに、と彼女はそっと付け加える。
 座ったままの僕に、彼女は何気なく近づいて、すれ違うように顔を近づける。彼女の顔は僕の顔のすぐ横で止まった
 柔らかい匂いが香る。そして、そのつややかで小ぶりな唇を、そ、と開き、少しだけ息を吸った。
情け無いことに、僕は彼女とのあまりの近さにくらくらしていて、まともに物を考える余裕がなかった。
 彼女の、ためらうような呼吸が耳元に優しく響く。
「命令よ」
 そっと言葉を置くように、淫靡に僕に囁くと、彼女はまるで夢泡沫のように、僕のふところから立ち去って行った。彼女の香りが、教室のつまらない無機質な香りにまぎれてゆく。
 ――いま、僕が彼女に感じた感情はなんだろう?僕の脳みそをぽんこつのうすのろにした、このスウィーティで甘い感情はなんだろう?
 きっと、性欲だ。
 僕は、お嬢さまに性欲を抱いている。そしてきっと、ミノリさんにも。
僕のなかの、張り詰めた、堰に押しかける泥水のような部分が、彼女たちを手篭めにしてぐちゃぐちゃにして孕ませてやれと押しかけているのだ。
僕は彼女達のどちらかを想っているだろうか?愛しているだろうか?これは恋愛感情だろうか?
 いや、これはきっと性欲であって、僕は彼女達を愛してはいない。
 なんたって、僕は彼女達の事をまったくといっていいほど知らないのだ。
 仕事の合間に当たり障りの無い話をしたぐらい。あとは、僕をひきつけて放さない、彼女達の麗しい外見しか知らない。音楽の好みだってよく知らないし、そうだ。それこそ、彼女達に今懇意にしている男性がいるかどうかだってわからない。漫画とかだったら、お嬢様みたいな人には絶対、婚約者がいたりするのだ。
 ミノリさんだって、外見は申し分ないし、性格だって飛び上がって驚くくらいによいのだ。それに、あれだけおっぱいが柔らかそうなんだぜ?そこら辺の男が放っておくわけないじゃないか。
 そうだ。そういえば僕は、彼女達のメールアドレスだって知らない。本当に何も知らないんじゃないか。それなのに僕は、彼女達が屋敷に早く馴染むためか、優しくしてくれたのを勘違いして、見事に勘違い男になってしまったのだ。
彼女達の外見しか見ていないのに、どうして好きになれるんだ?
そうだ。所詮僕が好きなのは彼女達の外見であって、お嬢様そのものが好きなわけでも、ミノリさんそのものに惹かれているわけでもないのだ。上っ面だけだ。そこら辺のアイドルにお熱を上げるのと、なんら変わりはしない。そうだ。きっとそうだ。
 僕は、沈んだ気分をごまかして、鞄から次の授業のノートを出すと、面白くも無い復習を始めた。



 そして僕は、自分の黒く澱んだヘドロのような、粘着質の欲望に区切りをつけられないまま、週末を迎えることとなったのである。
 朝7時に目を覚まし、いつものように身だしなみを整える。そういえば、今日は私服で来るように言われていたっけか。しかし僕はワイシャツ党なので、私服にしたって何時もと大して変わりはしないのだ。ネクタイがなく、上着が安っぽいくらい。しかし今日は暖かく、上着も要らないようだった。
 服を着替えた僕は、ドライヤーを手に、いつもより執拗に髪を撫で付ける。収まりきらない癖っ毛に、引き出しから、ニュートラルグレイのUFOのような形をした容器を取り出し、UFOに内封されたペーストを指ですくおうとして、やめた。上下に分離した容器のふたを閉め、引き出しにしまい直す。
僕は、何を浮き足立っているんだろうか。僕はもともとヘア・ワックスが好きではないし(あのべたつきが駄目なのだ)、ろくに使ったことの無いヘア・ワックスなんてなじみはしないのだ。お嬢様と外出だからって、変にかっこつけてどうするつもりだ。そんなのどうせ逆効果じゃないか。ちょっと考えればわかることだ。どうせ僕は、いつもの姿をお嬢様に見られているんだぜ?
はねるような陽気さと憂鬱な気持ちが混ざったような不思議な感覚。徹夜したとき、朝方に感じる感覚に近いだろうか。胃の辺りに少しの吐き気を含み、心臓は陽気に、だがどこか不自然に跳ね、心は沈む。
おしゃれもそこそこにして、どうにかいつもどおりの僕を作り上げ、一階に向かった。
台所では執事長が朝食の準備をしていた。僕も一言断り、手伝いに入った。別に今日は当番でもなんでもないのだけれど、何かして気を紛らわしていないと、僕にもよくわからない何かに呑まれて、どうにかなってしまいそうだったのだ。
そんな不純な動機がいけなかったのか、トマトを切るときに、包丁の切っ先で左手の人差し指を、引っかくように切りつけてしまった。そこまで深い傷ではなかったが、血が指を伝って爪に滴を作った。零れ落ちる前に、慌てて舐め取り、ティッシュを巻きつけた。白くざらざらした、二枚重ねのキャンバスに、鮮やかな赤が広がってゆく。
その艶やかな黒髪からか、なんとなく黒い色の似合うイメージがあるお嬢様だが、こんな色もきっと、その黒髪を引き立てて似合うだろう。脈絡もなくそんな考えが僕の頭によぎった。深紅のドレスを纏うお嬢様。それは、きっととても美しい。しかし、そんな考えもすぐに、後ろ向きな言葉に埋め尽くされていく。僕は性欲に支配されているんじゃないのか。
 沈んだ気分のまま、サラダを作り終え、食パンをオーブンに突っ込み、つまみを回した。オーブンが赤熱し、赤外線がイースト菌と小麦粉と、水とひとかけらの塩、それともしかしたら防腐剤の結晶に向けて殺到する。食パンが狐色になるさまを、ゼンマイの音を聞きながら、僕は、なんともなしに見つめていた。
 素直になれば、楽しみなのだ。そりゃそうさ。憧れていた人と出かけるのだ。楽しみでないわけが無い。後ろ暗いものがあったとしても、出かけるという行為自体は楽しみだ。
 ベルの音を鳴らし、オーブンが役目を終えた。ほぼ同時に、執事長のほうの朝食の準備が終わり、お嬢様やミノリさんはまだ来ないようなので、僕ら二人で朝食を食べることにした。
 バターを乗せたトーストを齧る。狐色のトーストは軽い音を立てて千切れた。
「憂鬱なことでもありますか?」
サラダに手をつけようとしたときに、執事長に声をかけられた。とっさのことに、返事が一瞬遅れた。
「いえ、特にそういうわけでは」
「お嬢様は、トモキ君とお出かけになるのをずいぶんと楽しみにしておられました」
 そうなのか。もしかして本当に彼女は僕の事を想っているのか?それはそれで、僕の猛りは行き場を無くす。彼女の好意に付け込んで、自分の性欲を満たすような真似は、僕なんかには出来ない。僕は本当に彼女を想っていないのか?お嬢様にも、ミノリさんにも、真摯な思いというものを抱いてはいないのか?
 愛したい。真摯に人を想いたい。愛している、という免罪符が欲しい。なぜ自分の想いすら自由にならない?
 そうだ。僕は愛したい。お嬢様でも、ミノリさんでも、どちらでもいいから、愛して、その免罪符が欲しいのだ。なんだこの自己矛盾は。どちらでもいい、なんて言っている時点で、僕に愛がないことなんて分かりきってるじゃないか。
 そもそも、愛ってなんなんだ?
虚数単位を習ったときに誰だかが言ったっけ。花村だった気がする。「アイは虚数単位だから、自分と相手、二つのiが揃ってなきゃあ現実には存在できない」とかなんとか。もちろんそんな歯の浮くようなクサい台詞をのたまったバカはそのあと当分これをネタにからかわれ続けたのだが。しかし、アイは両想いじゃないと成立しないってか。
じゃあ僕はどうだ?お嬢様は、ミノリさんはわからない。片方のiすらも、僕は持っていないのか?僕は本当に、そんな、最低の人間なのか?
考えれば考えるほど、自分がなにを思っているのか分からなくなる。自分に信用が置けなくなる。なにをやっても上手く行かない気さえしてくる。
あきらめろよ、僕。適当にごまかせよ。
僕はあきらめなくちゃいけないのか?いや、あきらめるって、なにをだ?
自分でもよく分からない、ネガティブな思考のループに入っている僕を、正樹さんの声が現実に引き戻した。
「トモキ君が何を悩んでいるかはわかりませんが、自然にしていれば、何事も大丈夫です。いや、私達は自然にするほかない。自分に嘘がつける人間は、居るようで、その実、絶対にいない。面倒なことは何も考えず、一日過ごしてみてはいかがでしょう。外出の時くらいはね。それに、女性の前で他の事に現を抜かすと怒られてしまう、と昔から言うものです」
 そんなものだろうか。いまいち煮え切らない気分のまま、固焼きの目玉焼きの黄身をフォークで突き刺して、そのまま口にした。まるで満月を食らうかのように。どうせなら僕も狼のように、もうちょっといろんな事を考えないでいい生物だったらよかったのに。



食事を終えた後、僕は何かから逃げるように、やらなくてもよい仕事に取り組んだ。
そして九時ごろに降りてきたお嬢様が食事を終え、身支度を整えるのを待ち、ちょうど、僕の左腕に括り付けられた時計の短針が十時に差し掛かろうとする頃に、お嬢様に引かれるようにして、家を出た。
「ねえ」
 屋敷を出てすぐ、駅前へ向かう道の中、お嬢様が楽しそうな響きでそっと囁くように、しかしはっきりとした発音で、僕に声をかけた。
「なんでしょう」
「今日はどこに行くの?」
「え?」
 おいちょっと待て、僕が考えるのかよ。聞いてねえぞ。
「何よ、何も考えてないの?」
「すみません、てっきりお嬢様にどこか行きたいところがあるんだとばかり」
「まあ、なら適当にぶらぶらしましょ」
「はい」
「ああ、それと、その口調、やめなさいよ。今私達はデートしてるのよ?敬語を使われたら、なんだか不愉快だわ」
「ええと……うん」
 彼女の、もしかしたら好意の表れとも取れる発言は嬉しいのだけれど、なんだか素直に喜べなかった。
 横を歩くお嬢様――シズネちゃん(と呼ばないと今は怒られるだろう)を見る。
 後ろめたさからか、まともに彼女を見たのは、今日はこれが初めてかもしれない。僕は、彼女が何を着ているかさえよくわかっていなかった。
 今日の彼女は、いつもより落ち着いた格好をしている。彼女の服と言うと、海明の制服であるブレザーの他に、フォーマルな服装のイメージが強かったが、あれも「お付き合い」の時の制服のようなものだし、今日着ているような服装が、彼女自身の好みなのかもしれない。
 黒いフリルブラウスに、少し長めの、うっすらと桜色がかった、ホワイト基調のスカート。ゴシックロリータ風の色合いだが、デザインは派手ではなく、むしろシンプルな、安っぽい色気を持たないものであったので、シズネちゃん本来の雰囲気と相まって、非常に落ち着いた雰囲気をまとっていた。まるで、彼女の回りだけ、時間が、そして風が緩やかに流れているような錯覚。
 さくら。さくらの花弁の、生まれ持った色気を放つしとやかな、そして、儚いまでのやわらかな、うつくしさがそこにあった。
 彼女のその、風に吹かれ宙に遊ぶ黒は、墨だろうか。墨染めの桜がそこにあるのだ。
彼女は、僕は、何を儚んで、何を悼んで黒く染まっているのだろう。故事にあつらえて、ひねくれた考えでそんな事を思ったのは、それからどれくらい経ってからだったろうか。
 ただ、僕は何もせずに、見惚れていたのだ。あらためて、彼女の美しさを再認識するはめになった。
「どうしたの?」
 動きを止めた僕を不審に思ったのだろう。シズネちゃんが僕に声をかけた。
 変に隠すことでもないかと思って、ありのままを話すことにした。
「いえ……いや。服、似合うね。可愛らしい服も、似合ってる」
 こんなこと、普段言い馴れていないので少し声が上ずった。
「そう?」
 彼女は、嬉しそうに微笑んで、墨染めの花弁を揺らして歩き出した。
 そんな彼女の背中を見ているのも魅力的ではあったが、先を行く彼女に並ぶために、僕は、小走りに走り出した。
「ねえ、せっかくだから少し遠出しない?せっかくのデートなんだから、この街にいるのもなんだかもったいないものね」
 僕がシズネちゃんに追いつくと、すこし悪戯っぽい、キュートな笑みを浮かべながらお嬢様は言った。
「うん、いいよ。どこまで出る?動物園か遊園地?一応沿線にあるけど」
「たしかに行きやすいけど、あそこにいっても多分、私達じゃあすることがないんじゃないかしら。どうせ行くなら、それは今度きちんと時間を取って、上野か千葉まで出ましょうよ」
 どうやら彼女の中には、次もありえるようだった。
「だから、今日は新宿まで出ましょうよ。あそこならたいていは揃ってるし、何か思いついたらすぐに出来るでしょう」
 彼女のアクティブさになんだか圧倒されながら、このときの僕は、なんだかわけもわからず楽しくなり始めていた。
 だから僕は、逡巡する間もなく、その提案に頷いた。



 時計が正午を回る少し前、僕達は、人のまばらな電車に揺られていた。みんながみんな、十分二十分を争って、急行や各駅停車ではなく、特急電車に乗り込んだのだ。そのせいで、僕達の乗る各駅停車は、驚くほど人が少なかった。この電車に乗っているのは、急行や特急が切り捨てた、小さな駅や、人の多さを嫌った人だけ。なんだか知らないが、世界に取り残されたような、そんな寂しさを覚えた。各駅停車って、きっと、社会のスピードに合わせられなかったんだ。休みの日なのにみんな一分一秒を争って、とても座れないような電車に乗り込む。主要駅以外は切り捨て(なんと、十以上も駅があるのに、特急と来たら終点を含めて二つしか止まらないのだ)、効率化を図る特急電車。
 なんだか、僕には各駅停車がお似合いな気がした。もちろん、用があって遠出するときは、僕も迷わず特急を使うのだけれど、なんと言うか、こっちの方が僕の身の丈にあっている気がしたのだ。
 首都圏を走る電車の窓からは、線路沿いの、たいして面白くもない町並みが流れていた。特に特徴もない町並み。ろくにビルもなく、小さな川が流れたりしている。まるで特急は、この国の、この首都の、発展していない部分から目を背けているみたいじゃないか。
 ゆっくりと走る電車に揺られながら、僕とシズネちゃんは、どうでもいい話をたくさんした。それは特急と急行の話だったり、流れて来る町並みの話だったり、今日の昼ごはんの話だったりした。
 やがて電車は地下に潜って、次の駅が終点である事を告げる。
そうして、最短二十分のところを、たっぷり四十分近くかけて、僕達は都心に着いたのだ。



 慣れていないと、何処が何処に繋がっているのかわからない駅構内を、案内板を頼りに(と言っても、目的地もないので適当だったけれど)抜け、改札を出た先の、太い、四車線道路を見ながら、シズネちゃんが口を開いた。
「こっちは違うわね。華やかで、けばけばしい感じだわ」
 言ってから、彼女はすぐに歩き出した。僕も詳しいわけではないが、彼女が歩いて行った方向には、たしか映画館や百貨店があったように思う。
 あたりを見回すと、都庁なんて大層なものがある街の、駅周辺とは思えないくらい、新宿の街はごみごみしていた。狭い区画にぎっしりと、息が詰まるほどの間隔で、年季の入った建物が並び、雑居ビルそのものだってある。たまに混ざっている綺麗な建物が不自然なくらい。
 飲み屋にパチンコ屋はいくつも並んでいるし、質屋や、けばけばしい色彩で飾り付けられたアダルトショップのまがい物みたいなところまで見受けられた。いや、これはアダルトショップそのものなのか。店先にいくつも吊るしてある、安っぽいコスプレ衣装なんかは、やっぱり、その、コトをいたす時に使うのだろうか、なんて考えて、いまは女の子、それも、とてつもない美少女と一緒だという事実を思いなおし、全力でそんな生々しい考えを頭からかき消した。
 これ以上見ていたら、シズネちゃんでそういうことを考えない自信がなかったし、正直なところ、脳内でコスプレ衣装を着せるところまでは既に行っていたのだ。
 そうして、半ばやけのように、あたりを見回して、浮き足立った自分の心をごまかすように、何か、エネルギーをぶつける矛先を探した。
 なんだよ。特急、準特急って、なんだって利益にならないものを取り残して、それで出来上がったのがこんな街かよ。別に僕は嫌いじゃないが、こんなもの、お偉いさん達は大っ嫌いじゃないか。ざまあみろ。
なんとなく、僕の街を置いて行った誰か、手も届かないほど偉い人かなにか、もしくは経済が憎たらしくなって、心の中でこの街を少し馬鹿にしたくなった。
「けっこう、雑然としてる。この街に都庁があるなんて思えないくらい」
「そうね。新宿って、いわゆる綺麗な街じゃないわよね。御苑だってあるのに。駅から出て少し歩けば繁華街だし、キレイなオトナの好きそうな町並みではないわね。日本の首都の、副都心、なんて呼ばれてるのが信じられないくらい。いわゆる綺麗なところなんて、都庁の周りと、御苑の周りくらいね」
 なんだか嬉しそうにそう言った彼女に、ずるい、なんていう子供じみた感想と、「それ」が全ての、受け入れるべき真実であるような、その事実を含めて、この街を受け入れたいような感情がわきあがってきた。
 今、僕は何かを受け入れられる気がした。それが何かはわからないが、いつかそのときが来ても、僕はその「何か」を受け入れられる気がしたのだ。
「でも、私は、そんなものだと思うわ。気取らない、なるように動いてきた、素直な街だと思う。この街は、とても人間らしいじゃない?まあ、私なんかには見えていない、もっと後ろ暗い部分もいっぱいあるでしょうけどね。でも、そんなものでしょう?きっとうちの周りにも、世の中の暗部があったりするのよ」
 やはり少し嬉しそうに、また、憧れるようにして、お嬢様が言った。
 人間らしい、その言葉に、なんだか少しだけ違和感を覚えた。そういえば、面接の時に似たような事を聞かれたのだった。彼女にとって、人間らしさとは、何か意味があるのだろうか?人間らしさ?つまり何が何を人間たらしめているか?そんなもの、他の動物との差異を考えたら出てくるかもしれないけれど、僕達が長期的に考えるようなことではないと思うんだけど。
 だって僕達は、人間として生まれてきたのだ。ならば僕達が取る行動は全て人間らしいし、思想も、構造も、何もかもが人間らしいじゃないか。当たり前だ。だって僕達がその人間なのだから。
「やっぱり、都会に出たい、とか思ったりするの?」
「いいえ、そう言うのはないわ。都会に出たからと言って、今の私には別に大したメリットもないもの。ただ、違うと思ったから口にしただけ。あなたは?」
「僕も別に。まあ、この先就職したりしたら、会社の近くに住みたいとは思うだろうけど」
「会社に住んじゃえば良いじゃない。理想的な職場ね、篠宮家なんか」
 急に、シズネちゃんが足を止めた。
「そうだ、お昼ご飯どうしましょう。何か食べたい物とかある?私も、よく来るわけではないから詳しくはないけれど」
そう言えば、ちょうど今は正午から、長針が半回転したあたりだ。昼にするにはいい頃合だろう。でも、情けないことに、僕は彼女に似合うようなおしゃれな料理屋なんて、まったく知りはしないのだ。だから、素直に彼女のエスコートに甘えることにした。
「いや、何でもいいよ」
「そう?じゃあ、あそこのお店でいいかしら。もっとおしゃれなところも、一応知ってはいるけれど」
 駅を出て、少し歩いた先にあったのは。
「牛丼?」
 全国展開している、牛丼のチェーン店だった。こっちはお味噌汁がついてこないんだよな、確か。
「ええ。一回食べて見たかったのよ!でも、一人じゃあ入りづらいでしょう?貴方が、もっとデートらしいところに行きたいなら、それもいいけど」
 いや。僕は別に構わないのだが。
「別にいいけど……ここでいいの?」
「ええ。ご飯を食べたら、洋服を軽く見て、映画でも見に行きましょうよ」
 お嬢様は、牛丼屋の自動ドアをくぐって、意気揚々とカウンター席についた。
「ちょっと!先に食券を買ってからだって!」
 店内の色々な視線が、集まった。



 安っぽい牛丼を食べ終わった後、僕らは百貨店の中を見て回っていた。この百貨店は映画館をその頂に構えていて、映画の上映時刻まで時間が空いたので、時間つぶしにウィンドウショッピングを楽しむことにしたのだ。
「ね、あなたこういうのも似合うんじゃない?」
 そう言って、彼女が僕の体に押し当ててきたのは、深い、とても深い赤をした、深紅のワイシャツ。なぜか、僕達は紳士服を見ていて、彼女は生き生きとした表情で、僕を着せ替え人形にするのだった。性をひとまとめにして語るのはあまり好きではないけれど、やっぱり女の人は買い物が好きなのだなあ、なんて思ってしまう。
「ちょっとこれは派手過ぎるんじゃ……」
「大丈夫よ、あなた、こういうの着てても嫌味にならないもの。きちんと合わせれば、しまって見えるわ」
 そういうものだろうか。こんなの、派手な上に僕みたいな奴には似合わない気がするんだけど。もし似合っていたとしても、薄っぺらいナンパ野郎かヒモにでも見られてしまいそうだ。
「じゃあこれと、これに合わせて適当に見繕いましょうか。でも、こっちのシャツもいいわね。いいわ、買っちゃえ」
お嬢様は、次々と、洋服をプラスチックの買い物籠に放り込んでゆく。男物の服を。
「ねえ、ちょっと来てちょうだいよ。これ、サイズは合うかしら」
 苦しゅうないわよ、なんてふざけながら、彼女は僕を呼んだ。
 言われるがままに近くに寄り、彼女の好みの服をあてがわれる。
「あのう、その。見立ててくれるのはありがたいんだけど、僕は今日、こんなに服を買えるほどお金を持って来てないんだけど」
 とても情けなく思いながらも、いざ会計になってからでは遅いので、恥を忍んで切り出した。
 すると、彼女は、一瞬驚いたような顔をして、そのすぐあとに、左手を口元にやり、上品に、
くすくすと笑い出した。
 ひょっとすると間抜けになりかねない驚いた顔も、もちろんその上品な笑みも、美しく、そしてどこか幼いやわらかさを感じさせるのだから、シズネちゃんはずるい。
 どうせなら僕としては、彼女が洋服を選ぶのを見ていたほうが楽しかったのに。それこそ彼女なら、たいていの物は似合ってしまうことだろう。
「なんだ、そんなこと気にしてたの。別にいいのよ、最初から私が買う予定だったんだから。成金だもの、私」
 そしてまた、彼女はくすくすと、上品に、そして、どこか、本当にどこか妖艶に笑った。
「その代わり、せっかく買うんだから着なさいよ。もちろん、この赤いのも」
 そして、ちょうど満足したのか、彼女は、籠いっぱいの服を持って会計に向かっていった。
彼女の横で、会計が終わるのを待つ僕を見る、店員の女性の視線が、少し痛かった。



 頃合を見て、エレベーターに乗り映画館へ向かう。その頃には僕の両手は結構な大きさの袋で埋まっていた。袋の重さに、朝作った切り傷が、少し痛んだ。手に傷を作るといちいち不便だ。それでいて治るのに時間が掛かったりするのだ。痛みを感じたまま、デパートの紙袋を持ち直した。それにしてもこんな荷物、映画を見るときに置く場所がないんじゃないだろうか。
 結局あのあとも適当に服屋のハシゴを続け、二揃えと、ばらばらに数着程度の服を買ってもらったのだ。ありがたいのだが、少しだけ情けない。
 あとは、シズネちゃんの服も数着。どうやら彼女は、赤系の色が好きらしい。それにモノトーンを合わせるようだ。まさに、いいところのお嬢様らしい趣味のような気もする。彼女なら何を着ても似合うとは思うのだけど、青系の色や明るい黄色には見向きもしていなかった。
 こうやって、お嬢様の事を、シズネちゃんの事を知ってゆけば、いつか僕は、僕の気持ちに整理を付けられるようになるのだろうか。僕は彼女を愛せるようになるのだろうか。
 でも、それってどこまで知ればいいんだ?
 僕達は、どこまで相手の事を知れば満足できるんだ?
 


大きな袋を抱えながら、柱にもたれかかって、ポップコーンを買いに行ったお嬢様をまつ。なんともなしにあたりを見回すと、やたらとカップルが目に付いた。
 それもそうか。この時間帯にここにいるような奴は、おおかた、僕らと同じ映画を見るやつらだろう。恋愛映画なんて、そうそう男だけで来ることなんてしないし、女性だけだって、もしかしたら抵抗を感じる人もいるだろう。こんなもん、そうしたら、必然的にカップルに比率が大きくなるのは道理じゃないか。
 これから僕達が見る映画は、はるばる太平洋を越えてやってきた、公開間も無い洋画だ。
 わりと老成した恋愛を描いているあたり、そこら辺の恋愛映画よりよっぽど僕の好みにはあったが、なにぶん、僕には、愛なんてものがよくわかりゃあしないのだ。
 愛なんて、そうだな、やたら純粋で、やたらまっしろで、ついでに情熱的で、羽根が生えてたりするんだろ?
 そんなもん、見たこともなければ、理解できるわけもないじゃないか。
 ああ、なんだ。そうだよ。わかってたじゃないか。僕は性愛を理解なんてしちゃいない。きっと、その欠片も知っちゃあいない。ただその言葉の響きに、憧れているだけだ。
 それなら、僕が抱いている感情は、綺麗なものじゃあ、ましてや愛なんかじゃあ絶対に――ないんじゃないか?
 そうだ。それに、なんたって、僕は、執事として働いているのだ。屋敷のお嬢様に色目なんて使って良いはずが無いじゃないか。二股まがいの事だって考えていた。何をトチ狂ってたんだ、僕は?
 それなら、僕は出来るだけ、彼女に対して抱いている劣情を表に出さないようにするしかない。僕は、彼女に嫌われたくはないのだ。
 そんな結論を僕が手に入れてからすぐ、お嬢様が、大きめのキャラメルポップコーンのバーレルと、飲み物を載せた紙製のトレイを手に入れて、戻ってきた。人並みをなんともなしにすり抜ける当たり、本当に庶民じみたお嬢様だ。
「混んでいて時間が掛かっちゃった。コーラでよかったでしょ?」
「うん」
 そういうシズネちゃんは、ちゃっかりタピオカジュースなんて買ってたりした。やけに遅いと思ったら、別の店も回ってたらしい。だから自分で行くなんて言ってたんだな。ちゃっかりした人だと思う。そして、そんなところがまた少し、可愛らしく見えたりするのだ。それが良いか悪いか、知らないけれど。
 大きな荷物を抱えたまま、館内に入った。もしかしたら荷物がとても邪魔になるのではないかと思っていたけれど、僕らの席は、ちょうど中央あたりの列の、端から二つなので、端に寄せておけば上映中は邪魔にならなそうだ。
ところで、このような場合、女の子(かつ雇い主)にはどっちの席を譲るのがマナーなのだろう。通路側が下座で、内側が上座?それでいいのだろうか?そもそも、映画館の席に上座下座ってあるのか?相手は女の子なのだし、とにかく、通路脇は避けておいたほうがいいだろうか。
しかし、今日一日中、どこを歩いても道行く人の視線を集めてしまうような女性を、見知らぬ人間の横に座らせるのも少し不安である。
僕らの席の隣の人を確認すると、清楚な風にまとめた大人しそうな女性であったため、僕は安心してシズネちゃんを、上座と思われる席にエスコートした。
通路側の席に僕が座り、足元に荷物を置いた。隣のお嬢様は、早速、キャラメルポップコーンに手を付けていた。
僕が席に座ってすぐ、スクリーンにお決まりの広告が映し出される。少しばかりじれったい時間を過ごし、ようやく本編の上映が開始された。
 上映が始まってすぐ、僕はなんだか少し居心地の悪さを感じた。そしてそれは映画が先に進んでゆくごとに、どんどん大きくなっていった。
そうだ。ぼくはまだ、何もわかっていない。何も区切りを付けられていないのだ。
 ぼくらが見た映画は、人生に一区切り付けた老齢の男女の愛情を描いたものだった。スクリーンの中に、これ以上なく美しい、純白の愛情が描かれてゆくごとに、ぼくは何かに追い立てられて居場所を無くしてゆく。
 それがなんなのか。僕を、僕のうちから追い立てるものはなんなのだろうか。その答えも分からないまま、映画は結末へと突き進んでゆく。
 スクリーンにスタッフロールが流れる頃になっても、僕は得体の知れない焦燥感にかられていた。映画の内容は、よく覚えていない。



「なんだか、期待してたよりくだらなかったわ」
劇場を出て、彼女は、夕闇に包まれた街を歩きながらそう言った。ショウウィンドウのガラスをすり抜けるデパートの照明と、のろのろと混雑した道を行く車のヘッドライトがなんだか目に痛い。
少し上を見上げると、満月がひっそりと佇んでいた。夜空に星の陰はなく、該当の光は、星を、月の存在感すらも飲み込んでしまう。
「そう?」
「そうよ。なんだか、綺麗すぎるわ。嘘くさい。いえ、あのくらいの歳になったら、本当にああいうふうになるのかしら。わからないわね。あなたはどうだった?」
 どうしようか。そうは行っても僕は内容をろくに観ていないのだ。さすがに大まかな流れくらいは覚えているけれど。
「そうだなあ、僕は割と涙腺が弱いから、勢いでちょっとやられたかもしれない」
 たぶん、僕がしっかりと見ていたら、こうなっていただろう。話としてはまとまっていて、勢いもあった。たしかに、これはヒットしてもおかしくはないかもしれない。一般受けはするだろう。
 シズネちゃん――お嬢様みたいなタイプには受けないかもしれないが。
「へえ、そうなの。意外ね。あなた、予想を裏切られないと満足できないタイプだと思ってたわ」
 それが、彼女の予想は当たっていたりするのだ。確かに僕は、そういうものが好きだ。ただ涙腺がゆるく、勢いでやられやすいだけで。
どうして彼女はそんなことまで見通せるのだろうか。いや。僕にもなんとなく、分かる。ほかならぬ彼女が、そういうタイプだって、なんとなく分かるのだ。そしてその直感的な理解には、やはり根拠もない自信があった。
「いや、そういうのが一番好きなんだけどね。勢いや雰囲気にやられやすくて。頭じゃ分かっちゃいるつもりなんだけど」
「そう、やっぱりそうなのね?だってあなた、見るからにそんな感じ、するもの。でも、勢いとか雰囲気とか、分かるのもいいことだと思うわ」
 彼女の顔がほころんだ。美しく、時に近寄りがたいほどのある種の雰囲気を感じさせる彼女は、その神聖とでも言うようなイメージに反して、その実、ころころと表情を変える。彼女はすぐに笑顔を見せ、そして時折、凄く印象的な、寂しそうな顔をする。
「シズネちゃんも割とそういうタイプでしょ。予想外じゃないと満足できないタイプ」
「ええ。分かるかしら」
「なんとなくね」
「そう。ところで、駅ビルでお土産を買って行きましょうよ。何か食べるもの」
「いいけど、みんなどんなものが好きなんだろう?」
 そういえば僕は、正樹さんの好みなんて知らない。ミノリさんもろくに知らないし、シズネちゃんだって。そういえばシズネちゃんは白味噌より赤味噌のお味噌汁のほうが好きだった気がする。でもこんな情報、お土産には何の役にもたたない。
「正樹さんは意外と甘い物が好きよ。ミノリさんは……まあ何でもいいでしょ」
 なんだか投げやりな気がするけどまあいいだろう。ミノリさんも甘い物はわりと食べている気がするし。
「じゃあ、何か甘いものにしようか」
 といっても、なにがあるだろう。だいたいの物は揃っているだろうけど、一口に甘い物といったって、それこそ逆に、無数にあるのだ。そして僕はわりと優柔不断で、こういうのを決めるのが好きではなかったりする。
「そうね。なにがいいかしら。洋菓子にしましょうか、和菓子にしましょうか。あなたはどっちが好き?」
「そうだなあ……どっちも好きだけど、今日は和菓子がいいかもしれない。餡子ものがいい気分」
「じゃあ私、最中がいいわ!タネヤの奴!」
「あるかなあ、タネヤ」
「あるわよ多分。新宿だもの」
 結局、タネヤは僕らの使う鉄道と別系列の鉄道会社の駅ビルに入っていることが分かったので、僕らは足を伸ばして最中を買いに行った。
帰りの電車も各駅停車。僕らは、ゆっくり時間をかけて、とりとめもない話をしながら我が家へと戻った。帰り道は、なんだか、胸が苦しかった。
地元の駅に着いてからは、何故だかお嬢様も無口になった。僕達は、一体、お互いに何を思っているのだろう。
見上げた満月が、僕達を、いやに寂しく照らしていた。

続く
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