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琥珀の銘:4・5


     4

 屋敷に戻って、一通りの事を済ませて部屋に戻ると、急に疲れが押し寄せてきた。そういえば僕は今日ろくに寝ていなかったっけ。そして僕は明日もミノリさんと出かけなくてはならないのだ。
そう考えると、なんだか気が重い。しかし、今更行かないわけにも行かないし、なんだかんだ今日だって、開き直ってみれば楽しくもあった。
さっさと寝ちまおう。それがいい。
そう心に決めて、寝る仕度を始める。とは言っても、歯は磨いたし、部屋に散らかすほどの物があるわけでもなし、課題があるわけでもない(あっても今日はやらないだろう)。明日の服を決めておくぐらいだ。服か。そういえば今日買ってもらった服はまだ袋に入りっぱなしじゃないか。明日着てゆくのはさすがにまずいだろうが、タグを切ってタンスにしまうくらいのことはしておこう。
はさみを手に取り、大量の服のタグを切り離す。値札に表示された数字にすこし怖気づきながら、片っ端からタグを取り外し、畳んでゆく。
「痛っ」
ポリプロピレンのワイヤーに引っ掛けた指先に痛みが走った。見ると、朝作った傷口が開いている。そういえば、怪我なんてしてたっけか。
痛みとともにゆっくりと、血が滲み出してくる。傷口に血の滴が膨れ上がり、こぼれそうになって、慌てて僕は指を口に含んだ。
「絆創膏は……もって来たっけか?」
はて、僕は絆創膏をどこにしていただろう。実家にいたときはいつも、救急箱に入れていたはずなのだが。
「……救急箱?」
 そう言えばそんな物持って来てないぞ、僕は。屋敷の物を使わせてもらえばいいだろうと思って置いてきたはずだ。とはいっても、この屋敷のどこに救急箱が置いてあるかはよく覚えていないのだけど。ミノリさんに傷の手当てをしてもらったことがあったはずだけど、あれはどこから取ってきたのだったか。覚えていない。仕方ない、とりあえず一階に下りて探すしかないか。
とりあえずティッシュを傷のある人差し指に巻きつけ、部屋を出た。
 今は十一時を少し回ったところだったろうか、温かくなり始めたとはいえ、夜はまだ少し寒い。人気のない廊下に冷たい空気に、どこか心細さを感じた。こころもち足早に階段を降りる。とりあえず、居間に行ってみれば良いだろうか。
 一階に降りて廊下を居間の方に進むと、居間のドアから光が漏れていた。まだ誰かいるみたいだ。正樹さん辺りがいてくれると助かるんだけど。救急箱の位置なんかは完璧に把握しているだろうし。
「すいませーん」
 とりあえず居間に入る。そこにいたのは、お嬢様だった。なにをするでもなく、椅子に座っている。一応文庫本を開いてはいるけれど、その視線はまったく活字には向いておらず、ただ何もない虚空を、いやに鋭い目つきで睨み付けている。
「ああ……どうかした?」
 僕の声で我に返ったように、お嬢様の視線が現実を捉え、僕の方を見た。目つきは幾分かやわらかくなっていた。
「いえ……救急箱ってどこにありますかね」
「救急箱?そこの戸棚の中だと思うけれど……どうしたの?」
「いえ。ちょっと。怪我をしてしまいまして、絆創膏を」
「けが?ひどいの?ちょっと見せなさいよ」
「いえ、そんなにひどくはないんですけど」
 彼女に近づき、軽く左手を差し出す。巻きつけたティッシュに血がにじんでいた。
「血が出てる」
彼女が、僕の左手に両手を添えた。巻きつけたティッシュをそっと剥がす。なにをしようって言うんだ?わざわざ傷口なんて見ようとするものか?
それも、別に特別な傷ってわけじゃない。どこにでもある、ありふれた切り傷だ。
 ティッシュが外れ、傷口があらわになった。血に濡れたティッシュに包まれ蒸れていた皮膚が外気に晒され、気化に熱を奪われる。
「血……切り傷ね」
お嬢様が、僕の人差し指を口に含んだ。
お嬢様の小さな舌が僕の人差し指をねぶり、傷口に滴る血を吸いとってゆく。
僕は、未だに何がなんだかわかっていなかった。自分が何をされているのか、彼女が何をしているのか。
 胸のうちのなにもかもを忘れて呆けている僕を、痛みが現実に引き戻した。
 彼女の舌が傷口をつつき、舌先をねじ込もうとしているのだ。まるで、僕の指が彼女の舌に犯されているよう。開いた傷口からさらに血が流れだし、彼女はまたそれを貪欲に舐めとる。
 血を啜る音と、壁掛け時計の秒針の音だけがリビングに響いていた。
 これは一体、なんなのだろう。
 ラブコメなんかによくある、甘ったるくて胸焼けがするような治療だろうか?
 いや、違う。そんなものじゃない。素人が治療で傷口を開くものか。
 じゃあ、なんだ?この行為はなんだ?
 そうして、僕が必死に現実を咀嚼している間にも、彼女の舌は僕を犯してゆく。
「ん……あっ……ん……」
 彼女の唾液と、少しの僕の血液による水音の合間に、彼女が息継ぎをする。お嬢様は間髪入れずに、また僕の指をねぶる。
 ずきずきと、規則的に僕の人差し指から伝えられる痛み。
 なにはどうあれ、ひとまずこの状況を脱しようと、僕より一回り以上背丈の小さい彼女を見下ろした。
 なまめかしく光を反射する彼女の濡れ烏が乱れ、僕の指へ吸い付いている。
 彼女が僕を見上げる。
 恐ろしかった。
 お互いに素手でいた場合、僕が彼女に傷つけられることは恐らくない。性差による、どうしようもない力の差があるからだ。だからどうこうじゃなく、そこには現実として差が存在している。
 組みついているような現状、さらにそれは確かに僕の優位を作る。
 だというのに、僕は、彼女に恐怖を感じた。僕の自由にならない心の奥底、安っぽく言うなら本能とでも言うべき物が、おぞましいものや理解できないものに対する恐怖、また生理的嫌悪感ではなく、命の危機を感じたのだ。
 ゾッとした。睾丸が縮み上がった。
 もうそれだけで、僕の体は動けない。蛇に睨まれた蛙とはこういう事を言うのだ。恐怖に縮み上がる中でも、彼女がとびきり美しく見えるのがなんだかシュールだった。
 彼女は僕とすこしの間見つめあったあと、唐突に僕の人差し指を解放した。
濡れた指が外気に触れて、少し寒いように思えた。指から始まって、腕にのぼり、体全体に、寒気が広がってゆく。そしてそれは僕の意識にまで切なさに形を変えてたどり着いた。   寒いんだ。僕という生き物は、この場所は、僕という意識は寒い。
 熱源が欲しい。なにか、温かいものが。僕を、僕そのものを暖められるものが欲しい。これは欲望だ。このときの僕にあったものは寒さであって、同時に欲望。
 そうだ。きっと寒さだ。僕は凍えて動けないでいたのだ、なぜか。理由なんていい。ただ僕は、きっと、凍り付いて動けなかった。彼女の前で、何かに凍り付いて動けなかったのだ。僕が感じていたのは寒さ。
 僕は熱を探した。
 僕が感じている冷たさを、切なさを、誰かにどうにかして欲しかった。
 お嬢様を見た。きっと僕は、すがるような目つきをしていた。それとも、忠犬の飼い主に餌をねだる目つきだろうか。ともかくこのとき、契約なんて者は関係なくって、圧倒的に彼女が強者であって、僕の全ては彼女の元にあったのだ。
 彼女は、その長く、零れ落ちるようなやわらかさを持つその髪の毛を、ふわ、とリビングの虚空に揺らめかせ、僕に一歩を踏み出した。彼女の右手が僕の胸板に当てられる。
 そして、左手を僕の顎に添えると、背伸びして、僕の唇に乱暴にくちづけた。
 熱だ。最も単純で恐らくこの宇宙、セカイ、ともかく僕らの想像できるほぼ全ての物を支配するだろう法則。熱の均一化。ただそれだけ。
その単純な図式を持って、彼女の熱が、冷えきった僕の体へ、意識へ、そして僕の自由にできない何かに流れ込んでくる。
彼女は、深く、乱暴にくちづけたそのままで、僕に体重をかけた。
何にも逆らうことなく、ただ引かれるままにリビングの床に倒れる僕達。
倒れた衝撃でくちづけた二つが離れた。名残を惜しむようにつながる唾液の銀線が蛍光灯に輝く。
頭を打った気がする。しかし、ろくに痛みを感じないので、もしかしたら打っていないかもしれない。いや、そんなことはどうでもいいんだ。
ぼくたちは、すぐに、お互いの唇を貪るようにもう一度くちづけた。
作法も何も無視した、がむしゃらな口づけに、歯がぶつかった。だけど、そんなことはどうでもいい。
熱だ。僕にはとにかく熱が必要だった。ご主人様からもらえる熱が。
 お互いの舌をがむしゃらに吸い付け合った。
シャンプーの臭いと、それから多分、僕を狂わせる月かなにかの香りがする。
僕には情報が入ってくるだけ。いまここで、僕の行為に、僕の意思は介在していない。
お嬢様の香りに、それからあとなにか、魔性を秘めた何かに。僕の体は突き動かされてゆく。
絡めたままの口腔に、鉄の味がした。血の味、僕の血だろうか?
そういえば、舌がずきずきしているような気がする。けれど僕は、傷みを感じていない。
何度目だろうか、お嬢様が僕の舌に、もう一度深く吸い付く。力任せに傷口をえぐり、慈しむようにねぶり、自分勝手に吸い取る。
いつの間にかお嬢様は、仰向けに倒れた僕に馬乗りになっていた。性交の体位にも似たそれは、そんなやさしいものではなくて、まごうことなきマウントポジション。彼女の長い黒髪も相まって、鳥が屍骸をつついているよう。そんなことしなくたって、僕の体は言う事を聞きゃあしないのに。
もう一度だけ、僕と深くくちづけを交わして、彼女の小さな、唾液と滲んだ血液に濡れた、その小さな唇が僕の口から離れた。唾液が、血液が、名残惜しいのか僕と彼女に、蛍光灯に光る薄紅の橋を掛け、つなぎ続けた。
まだだ。まだ。そんなのってないだろ。僕はまだ足りないんだ。どれだけ必要なのかは知らないけれど、僕はまだ足りない。
彼女に腰を押さえつけられたまま、僕はまた、彼女にねだる。彼女を見る。彼女を見つめる。
彼女は、その、紅い瞳をこちらにむけた。彼女の目は確かに、紅かった。琥珀色の瞳が紅く染まっている。
当然のことに思えた。彼女の瞳は赤く染まる。僕はそんなことに疑問も抱かないまま、
彼女を求めた。
彼女が僕に顔を近づける。額に軽くくちづけて、もう一度互いの唇を合わせた。彼女のちいさくて、柔らかい右の手のひらが僕と彼女の下腹を一緒くたにまさぐる。左手は僕の顔に添えられている。
壁掛け時計の音がひどく耳障りに感じた。ここにあるのは、僕と彼女の音だけでよかった。口腔の交わる濡れた音、衣擦れの音、そしてかすれた吐息。
僕の体は、未だ自動的であった。僕の意思とは関係もなく(といっても、体が自由であっても僕は同じ事をしただろう)、彼女に深く唇を合わせる。両手は頼りなく彼女の腰に添えてある。
彼女が少し身じろぎをして、少しだけうしろに下がった。彼女は左手で髪を少し掻き分けて、再度吸い付く。
なにか大きな音が聞こえた気がする。なんだろう。2階のほうだろうか。でも、何があったって、今の僕にはどうすることも出来ないし、何より関係がないのだ。勝手にしてろ。
彼女の右手が下腹を離れて、リビングに倒れたままの僕の左肩に添えられた。
彼女が軽く腰を浮かし、くちづけをやめた。離れる唇。
少し腰を浮かしたまま、彼女はその紅く染まった双眸をもって僕を見下ろした。瞼が一度だけ降りて、すぐに開いた。長い睫毛がしっとりと、濡れたようにつやめいている。
そのまま、彼女はそっと僕の唇に触れるだけのくちづけをした。
わかっていた。これで終わりではないことはもう、わかっていた。だから僕は、慌てることもなくそっと、彼女の腰に手を添えたまま、彼女を受け入れた。
彼女の左手が、僕の左ほほに添えられた。そのまま、彼女は、寝巻きの首周りから覗く僕の肩にくちづけた。首の真横。
そして彼女は、その小さな口を少しだけ開いて、僕の肩に噛みついた。最初はやわらかく、触れるような甘噛み。そしてそのまま少しずつ力がかかってゆく。そしてあるとき、彼女の尖った犬歯が、僕の皮膚を食い破り、深く沈み、前歯に肩がぶつかったところで止まった。そのまま彼女は動かない。舌だけを動かして、僕の肩から流れ出る血液を舐め取り、吸い上げ、飲み込んでゆく。
この期に及んでまで僕は、時計の音が気に障っていた。いらないのに。ここには、僕と彼女だけでいい。
自分が何をされているかは、正確に理解しているつもりだった。血を、吸われているのだ。彼女に。傷口は恐らくそれなりに深く、日常生活では見ることもないような多量の血液が流れ出しているだろう。動脈に近いし、もしかしたら僕の命にかかわるのかもしれない。同時に、たいしたこともない傷かもしれなかったが。
でもそんなことはそのとき、関係なかったのだ。命の危険かもしれなかったけれど、そんなことは関係なかった。べつに、僕がどうなろうとよかったのだ、おそらく、僕の自由にならない部分で、僕は、僕がどうなろうともよかった。お嬢様に血を啜られていたかったのだ。一つだけ気がかりがあったとしたら、彼女の顔が僕の血で汚れていることだった。
体は動かない。動かす気もない。ただそのまま受け入れた。
今度は先ほどよりも大きな音がした。さっきよりも近い。ああ。お嬢様がまだ、僕の肩にくちづけている。なんだろう。僕はお嬢様に、何かの感情を抱いている。名前のない感情。僕はこれの名前を知らない。
受け入れる。お嬢様を、受け入れる。両手を少しだけ動かして、右手をお嬢様の腰に回した。続いて左手をお嬢様の頭に回す。軽く、本当に軽く、お嬢様の邪魔にならないくらい軽く、力を込めた。
ああ、まただ。また何かうるさい音がした。邪魔をするなよ。もうすぐ僕は、どうにか、どうにかなってしまうんだ。どうにかなれるんだ。
よく分からない感情が身を占める。なんだったろうか、これは。憎しみと呼べる気がする。慈しみと呼んだのだろうか。悲しみ?嫉み?好意?好奇心と言ったのだったか。それとも、嫌悪だったか。敵意?興奮?渇望しているのか?切ないのだろうか!恋しいのだろうか!それとも!ああ、なんだ。この感情はなんだろう。甘いような、痛いような、暗いような、暗いような、それとも純白の、紫の、この感情はなんと言えばいいのだったろうか!僕は知らない。なんと呼べばいい。僕は今、何に身を包まれている。何を持っている。僕はこれを、なんと呼んでもいい。ネリリでもいいし、キルルでもいいし、ハララでもいい!ああ、どうしよう。だからこそ僕は、これを慎重に、優しく呼んであげなければいけない。僕が何に包まれているのか、間違えないように、確かに決めなければいけない。
ああ。今度の音はもっとうるさい。うるさいな、こっちは今忙しいんだ、僕と彼女以外が音を立てるのは許さない。
だめだ。集中できない。候補がまったく浮かばない。音を立てやがったせいだろうか。ちくしょう。こっちは真剣だって言うのに。
虚ろな目でお嬢様を見た。すると、彼女は、僕の肩にくちづけたまま、鈍い金属音とともに、僕の上に崩れ落ちた。
見上げると、ミノリさんが見える。彼女がどうしてここにいる?
少しだけ、体に自由が戻っていた。同時に、思考がクリアになってゆく。今まで考えていたことが霧散してゆく。そこには、何か大切なことがあった気がするのに。僕は何を考えていた?ああ、でも、今はそんなことじゃない。
僕は何をしていた?
簡単だ。彼女に、お嬢様に、シズネちゃんに、血を吸われていたのだ。最初は指の切り傷から、次に口づけを経て、最後に僕の肩口から。そういえば僕の肩はどうなっている?あわてて首を回した。稼動域の限界に首がきしむ。
二つの紅い点から、血が、ゆっくりと流れ出していた。思い出したように、一瞬、痛みが走る。とりあえず消毒して止血しなけりゃあ。ああ、そういえば僕は、救急箱を探しに来たんだっけ。救急箱、どこだ?ミノリさんだ。そこにいるじゃないか、聞けばいい。そう言えばミノリさんはなんでここにいるんだろう?いつここに来たんだ?
身を起こし、口を開こうと思ったところで、僕の意識は、張り詰めた糸のようにぷつりと途切れた。
あれ、そういえば、いつだったか、僕はミノリさんにも同じ事をされたような気がする――。





     5

気が付くと、自分の部屋にいた。僕は自分のベッドで横になっていて、ベッドの脇の椅子にはミノリさんが座っていた。
「ミノリさん……?」
「はい。起きたのね?体調はどう?」
「いえ、特におかしなところは……」
「そう、よかった」
いつもどおりのやわらかい口調で、あまり表情を変えずに彼女は言った。おそらく、僕の体調に異常がないことがわかっていたのだろう。
「とりあえず、お水飲む?」
起き抜けで、まだ少しぼーっとしているし、目を覚ましたほうがいいかもしれない。
「いただきます」
上体を起こし、ベッドのヘッドボードにもたれかかる。水差しからコップに注がれた水を、ミノリさんから受け取り、半分ほど一息に飲んだ。
「昨日のこと、覚えてますか?」
昨日のこと?そういえば僕はなんでミノリさんに看病されているんだっけ?風邪を引いたわけでもないのに。
「そうだ、昨日の夜、シズネちゃんに……」
血を、吸われたのだ。
自分でもなんだか信じられなくなってきた。何だよ、血を吸われたって。吸血鬼じゃあるまいし。彼女は日光も流水も、にんにくも平気だったぞ。
「血を、吸われたのよね」
信じられなくなって、首筋に手をやると、そこにはかさぶたが二つ、シズネちゃんのの犬歯の間隔に出来ていた。
「でも、なんで……」
そうだ。血を吸うなんて、普通じゃない。まっとうな行動じゃない。猟奇性すら孕んでいる。
「説明、いるよね?」
ミノリさんの口調がいつもどおりなのが、唯一の支えに思えた。
シズネちゃんは今どうしているのだろうか。無性に彼女の顔を見たくなったが、とりあえず今は、ミノリさんの話を聞くことに決めた。
「お願いします」
ミノリさんは、一瞬だけ窓の方を向き、ガラス越しに差す陽光に顔をしかめたあと、ベッドの脇の学習机の椅子に横から腰掛けた。
「わかりました。私がわかる範囲で説明しますけれど、もしかしたら、トモキ君は私の言う事を信じてくれないかもしれません」
ミノリさんが、どこか寂しいような口調で語り始めた。敬語がなんだか耳についた。
「ところでトモキ君、キョンシーって聞いたことありますか?」
キョンシー?あの、中国の?
「そりゃ、知ってますけど……中国の妖怪ですよね。顔にお札が張ってあるやつ」
知ってるけど、それがなんだって言うんだ?
「ええ。じゃあ、ノスフェラトゥは?」
「名前だけは」
昔やったゲームで見た覚えがある。
「ナハツェーラー」
「わかりません」
「まあ、有名どころはこんなところでしょうか。最近はこういうのが出てくる娯楽作品が多いから、みんな知ってたりするんですよね」
ご多分に漏れず、僕もゲームで知っていたクチだが、怪物の名前なんか、知っているとどうなるって言うんだ?二十歳になるまで覚えてるといけないとでも言うつもりか?僕に何の関係がある?
「それで、なんなんです?今のは」
「吸血鬼です。後の二つはヨーロッパですね。ちょっと調べるとわかりますけど、ヨーロッパを中心にマレーシアや中国、日本にも似たような話があったりします。日本のは血じゃなくて寝息だったりしますけど」
「吸血鬼?」
なんで今吸血鬼の話が出てくる?まさかそんな、さっき考えていたような、くだらないオチじゃないだろうな?
「ええ。吸血鬼です。ところで、インターネットもない、航路も確立されてない時代に、なぜ吸血鬼の話は広まっているのでしょう。遠く海を越えてマレーシアまで、日本まで」
「別に珍しい話じゃないでしょう。どこの童話だってなぜか末っ子が成功するし、同じ時期に似たような発明が成されていることだってある。どこの人間も似たようなことやってるってだけのことじゃないんですか」
「発明はともかく、童話、物語に関してはこう考えることもできませんか?」
外で車のクラクションが響いた。ふと、喉の渇きを感じて、コップに残った水を飲み干した。上体を傾け、手を伸ばし、コップを机の上に置くと、ミノリさんが話を続けた。
「事実そういうものなのだ、と」
「まさか、馬鹿げてます」
考える間もなく、否定が口をついた。そりゃそうだ。子供の妄想もいいところだ。
「そう思うカもしれませんね。けど、『事実、そういうものだった』んです」
「どういうことです?お嬢様が吸血鬼だって言いたいんですか?それこそ馬鹿げてる。ミノリさんの言い分を信じたって、彼女は日光を浴びたってなんともないし、にんにくだって平気で食べるし、十字架型のアクセサリーをしてたことだってある。もし、百歩譲って、吸血鬼がいたとしても、明らかに彼女はそうじゃない。まさか杭を心臓に打てとでも?」
苛立ちが募る。僕は馬鹿にされているんじゃないだろうか?敬語まで使って。
「そうですね。そんな反応をするのも、無理はないと思います」
ミノリさんが立ち上がり、いったん話を区切った。彼女はそのまま窓へと寄って行き、ガラス窓を明けてカーテンを閉めた。
「寒くない?空気がこもってるから、少し換気をしましょう」
「はい」
窓から振り返ると、彼女はそのまま口を開いた。さっきと変わらない、なんだかつまらない口調で。
「一度、最後まで話を聞いてください。何を思っても、最後まで。終わったあとに、わかる範囲ですが疑問には答えます」
 ――いいかげん、彼女も異常だ。子供でもわかりそうな与太話を、いつまで続けるのだろうか。何が彼女をそうさせている?彼女をこうまでさせるなにかが、彼女の話を聞けばわかるのか?
「はい」
「はじめ、吸血鬼は、病気のようなものだったのではないかと考えられています」
誰に?どこのどいつがそんな与太話を自慢気にくっちゃべってんだ?少なくとも僕は、そんな話、聞いた事がない。
「病気にかかった人間は、流水を怖がり、日光を避け、身体能力が上がり、寿命が長くなり、牙が生え、暴力的になり、人を誘惑するため魔性の魅力を手に入れ、そして、少しすると急に――血が、魅力的に思えてくる。そして、満月の日にはさらにそれらの特徴がが顕著。力はより強く、不死性に近い生命力を手に入れ、血を求める衝動は強くなる。抑えがたいほどに。そして、人ならざる魅力を持って人間を惹きつける。さながら誘蛾灯のように」
荒唐無稽だ。そんな病気――。
「――狂犬病?」
そうだ。最初の二つは、伝え聞く狂犬病の症状に似ている。
「似たものかもしれませんね。感染源は蝙蝠だったのでは、とも言われています。ジョークの一種ですが。まあともかく、そんな病気があった。当時の文化レベルでは、この病気にかかった人間を、呪いや怪物が化けて成り代わっているものと考えても仕方がなかったでしょう。そしてその病気が発祥すると吸血鬼として扱われ、吸血鬼は人間の敵として扱われる。それはそうです。吸血鬼は『人間』の血を啜り、自身の血をもって『吸血鬼』の同胞を殖やすのだから」
なんとなく、すわりが悪いような気がして、少し体勢を直した。腰の下に敷いていた枕を抜き取り、太ももの上に乗せた。
「そして、長い間、吸血鬼は人間の敵として迫害を受けます――まあ、今でももちろん、吸血鬼にいい目を向ける人間はいないし、迫害も受けますけど。しかし、ある時を境に、吸血鬼はその数を減らし、ほとんど現れなくなります。近代化による衛生環境の向上も要因の一つでしょう。また、吸血鬼を人間が恐れ、対策が広まっているのも原因かもしれません。だけど」
開いた窓から風が吹き込み、カーテンが流れた。風にさえぎられるようにして、ミノリさんの言葉が止まった。風が止み、カーテンが落ち着くと、彼女はまた、滔々と、そして無味乾燥に話を続けた。彼女の柔らかい表情が少し不気味で、なんとなく癪に障った。
「だけど、ある致命的な出来事があった。変異種の発生です。長い時を経て、病原体が変異を起こしたのか。何かをきっかけにして人間に適合したのかもしれません。変異した吸血鬼は、日光を恐れず、流水を苦ともせず、人格も変わらず、血を欲した。変異した病原体は原種よりも生命力が強く、衛生環境が良くなって原種がその数を減らしても、変異種はものともしなかった。そして変異種は、原種を駆逐して行きました。理性を保った吸血鬼たちは、身を隠すようになる。そして吸血鬼はどこからともなく集まり、普通の人間としてひっそりと、人間社会に隠れ、独自のコミュニティを作り暮らして行きました。ずっと――今に至るまで。まあ、たまにやんちゃした吸血鬼もいたみたいですけど。カーミラみたいな感じですね」
くだらない。まるでどこかのホラー映画のようだ。それとも、2000年近辺ぐらいに量産されたホラーゲームだろうか。そのうちのいくつかはよく覚えている。人体に変異を起こすウイルスがアウトブレイクしたり、ミトコンドリアがどうのってやつだ。なんだ、そっくりじゃないか。
「彼らは吸血鬼同士での交配を続け、その結果、身体能力は高く、そして身体的特徴は強くなっていきました。競馬のインブリードみたいなものでしょうか。血縁ではないのでまたちょっと違いますけど」
「まあともかく、今の彼らは、牙――犬歯が鋭く、その肌は白く魅力的で、そして、瞳の色が薄く、充血するとまるで赤い瞳――普段の色は、琥珀色。身体能力は人より高く――といっても、アスリートと比べたら負けてしまう程度ですが――、同時に代謝も高いため、そうそう病気にはかからない。そして、その血を人間が飲んだら――その人は、吸血鬼と同じくらいに寿命が延びて、吸血鬼に心酔する。病原体の感染力は弱まってるみたいですね。いや、もう『病原体』としては終わっているに等しい。遺伝でしか正しく感染しないこの病は、もはや『遺伝子』に組み込まれているようなものかもしれない。長い歴史の中で、遺伝子導入みたいなことでも起こったんでしょうかね。まあ、ともかく、既に、『吸血鬼』は病気ではない。そういう『生き物』なんです」
 一瞬、彼女は、寂しそうな顔をしたような気がした。しかしすぐに、先ほどと変わらぬ調子で、次の句を継いだ。
「まあ、それはともかく、今言ったことの中に、いくつか、思い当たることがあるんじゃないですか?」
琥珀色の瞳。そうだ。彼女は、琥珀色の瞳をしている。彼女の目が赤く見えたこともある。でも。
それは彼女が、人間じゃないって認めることだ。
彼女が人間で無ければいけない道理は無いし、人間であることが正しいこととであるといいきるには僕には信仰か純粋さか何かが足りていないのだけど、彼女を、お嬢様を、人間ではないと、僕とは違う生き物で、『吸血鬼』だと、断じることが、怖かった。僕は臆病者なのだ。この一歩がなにか決定的であるような気がして、とても踏み出せなかった。
「瞳に血管はないはずですよ。ほら、やっぱり作り話じゃ――」
「瞳に酸素が足りないと、新しく血管ができることがあるようです。瞳に血管が出来て眼圧が上がって病気になったりもするようですけど、吸血鬼は大丈夫だったみたいですね。時間をかけて適応したのか、それとも。まあともかく、不思議なことじゃありません。人間の一生でも起こることなんですから、長い時間をかけて瞳に血管が出来ても。彼女の犬歯が鋭いのは、肩の傷口を見ればわかりますね。普通の人間が、犬歯だけの傷を残せるはずがない。食いちぎるならまだしも。そしてトモキ君はおそらく彼女に魅力を感じていた。並々ならぬ、強く、抗い難い魅力を」
そうだ。その通りだ。全て、憎ったらしくなるくらいに、その通りだ。
「ミノリさんが、今の僕の状況を見てからこんな話を作ったのかもしれない」
「こんな壮大な、いえ、荒唐無稽な話を?」
「そうです。きっとホラー映画かなにかを基にして」
「そうかもしれませんけど、そうだとしても、トモキ君の肩口の傷だけはそこにあるでしょう?それは普通の人が残せる傷口ですか?それにあなたは、多分その傷に痛みを感じていない。むしろ愛しくすらあるかもしれない」
いとしさ。そうかもしれない。多分僕は、この傷に対して、悪い感情を抱いていない。普段は、つまらない切り傷に大して不便さを感じるほどなのに。だって、痛くないのだ。先ほどから体を動かしても、なんともない。未だ傷口はふさがっていないのに。
認めなければいけないのか。こんな、荒唐無稽な話を。お嬢様が、吸血鬼だって事を。彼女は、僕と致命的に違う存在だって事を。
いや。わかってたのだ。本当は。ミノリさんの話を聞いて、どこか納得している自分がいた。
「そう、かもしれません」
「そう。あなたは……いえ、トモ君は、どうする?」
どうする?何に対して?僕は何が出来て、何をするべきで、何をしたい?
「どうする、って?何に対してですか?僕はなにかしたほうがいいんですか?」
「トモ君、血は飲んだ?」
血?
「その、お嬢様の口に残ってた、僕の血なら」
「なら、大丈夫。何かできるわ。何もしないでもいいし、何かしてもいい」
「血が何か?」
「人間が吸血鬼の血を飲んだら、もう逃れられない。その人は吸血鬼の虜。逆らうなんて考えられない。全てはその吸血鬼のため」
「お嬢様は」
 答えを聞くのがなんとなく恐ろしくて、一瞬言葉に詰まった。
「お嬢様は、どうしているんですか」
「部屋に篭ってます」
「そうですか」
 彼女は何を考えているのだろう。飢えだろうか。渇きだろうか。血を欲しているのか。それとも。
「とりあえず、朝ご飯を食べます」
「じゃあ、すぐに用意しますね?」
「お願いします」
「約束どおり、朝ご飯が終わったらデートしましょう。少し遅くなっちゃったけど」
「そうですね。お洒落で美味しいお店、調べてあるんですよ。お昼、パスタでいいですか?」
 今は何も考えられそうになかった。だから、とにかく、体を動かすことにした。それはただの逃避だったかもしれないけれど。



バターをたっぷり塗ったトーストに目玉焼き、それにサラダという、いつもどおりの朝食を取って、身支度をして、僕達は街に出た。朝食の時に正樹さんと顔を合わせたけれど、どんな顔をすればいいのかわからない僕に対し、正樹さんはいつも以上に優しい表情だった。昨日、何があったかも知っているだろうに、どういうことなのだろうか。それとも、僕は当事者であるから、物事を大きく考えすぎているだけで、その実、たいしたこともない話なのかもしれない。ミノリさんだって終始落ち着いていたし。
そういえばミノリさんは、なんであんなことを知っていたんだ?僕より長く働いているから?でも、彼女は僕とほぼ同時に働き始めたはずだ。たまたま、お嬢様から話を聞く機会があった?普通、あんな突拍子もない話、証拠もなしに信じたりするものか?もしかして、彼女もお嬢様に血を吸われたことがあるということか?それじゃあ、僕達は、お嬢様の血袋として雇われたのか?
「ミノリさんは」
「はい?」
小物を手に取り、物色していたミノリさんがこちらを振り向いた。今日の彼女は、いつものモノトーンのメイド服とは違って、アイボリーのワンピースにピンク色の上着を羽織っている。いつもとは違う彼女が新鮮で、彼女を見ると、少しの間何も考えないですんだ。
「いえ、ペンギン、好きなんですか?」
なんであんな事を知っていたのか聞こうとしていたのだが、やめた。彼女を改めて見たら、なんだかそれはとてつもなく無粋なことである気がしたのだ。ちょうど彼女が手に取ったペンギンの小さな置物に目を付けて、とっさにこう聞いた。
「そうねえ、特別好きってわけじゃないかな。恒温動物ならたいてい好きなの。恒温動物って大体みんな、可愛いじゃない?」
「はあ」
「トモ君は動物、嫌い?」
「いえ、どっちかっていうと好きです。ペンギンも好きですね」
「そうなの?じゃあ、悩んでたけど、このペンギン、買って行こうかな」
「そうですか?じゃあ、ペンギン好きとしてプレゼントしましょうか。布教です」
 なんだか、いつも通り動いている自分が、少し気持ち悪かった。喜ばしいことのはずなのに。だけど少なくともこのとき、僕はデートを存分に楽しんでいて、そんなくだらない事よりは、目の前の彼女が笑顔でいることの方がよっぽど大事だった。
「そう?じゃあ私は、この子をトモキ君にプレゼントしてあげる」
同じ棚から、さっきまでミノリさんが持っていたペンギンと少しだけポーズが違うものを取り、彼女はそう言った。そして二人でレジに向かって、別々に会計をして、雑貨屋を出たところで袋を交換して、二人で笑いあった。そうだよ。別に、お嬢様が吸血鬼だってわかったからって、きっと僕の生活に大きな影響が出るわけじゃないんだ。そうだ。昨日のは事故さ。僕も気を付けていれば、もう、こんなことは無いはずだ。
「ねえ、次はどこに行きましょうか?」
「ミノリさんは、どこか行きたいところ、ありますか」
「そうねえ。お洋服とか売ってる所があったら、少し見たいんだけど。女物を売ってる場所なんて、あんまり知らないかしら」
「そうですね。駅前のデパートぐらいしか心当たりがないです」
「じゃあちょっとデパートを見て、ご飯にしましょうか。お昼ちょっと遅くなっちゃったけど、大丈夫?」
「ええ。僕は朝も遅かったですし」
「なら良かった。じゃあ、少しだけ付き合ってくれる?」



そうして僕らは駅前に建っている百貨店を一回りした後、前もって調べておいた料理店に行った。年中遊び歩いている花村が推薦した店だけになかなかの美味しさで、ミノリさんも満足してくれたようだった。奴に感謝しないといけないかもしれない。
店を出ると、もう、日が傾き始めていた。どうしたものか。一応、いくつか案は用意してあるけれど。
「ねえ」
「はい、何でしょう」
「少し、話さない?」
 料理店の近くの公園を指して、彼女が言った。
「歩きながらでも、いいじゃないですか」
「駄目よ。雰囲気が大切な時も、あるの」
「……わかりました」
 どんな話をするかは、なんとなく、わかっていた。
 人気のない公園に入って、二人してブランコに座った。僕が子供のころなんかは公園で遊ぶことも結構あった気がするけど、最近の子供たちの遊びってのは僕らのころとはまた違うのだろうか。寂しくなるくらいに、公園には人気がなかった。
「ふふ、ブランコなんて久しぶり。いつ以来かなあ」
「僕も当分乗ってないですね。小学校の、高学年ぐらいが最後かな?」
「懐かしい。昔は楽しかったけど、今乗るとなんだか怖いね。ねえ?」
「はい」
「私、あなたのこと、好きよ?」
 ブランコを軽くきこきこやりながら、いつもの調子でミノリさんが言った。
「……はい」
 そうなのかな、と思うことは何度かあった。自信はなかったけれど。でも、なぜだろう?僕と彼女はろくに時間も過ごしてないし、けして大きなイベントがあったわけでもない。吊り橋効果が起こる余地すらないのだ。
「答えはいいの。今、そんなこと考えられないでしょ?ただ、覚えておいて」
 一度だけ軽く風が吹いて、公園の隅に植えられた広葉樹を揺らした。葉の擦れる音が響く。
 風が吹き終わると、空を見上げるミノリさんがとてつもなく美しく見えて、後先を考えずに抱きしめたい衝動に駆られる。抗いがたい衝動に、理性が悲鳴を上げる。おかしい。僕は彼女を、ここで抱きしめてはいけないことが分かっているのだ。
 
 まるで、お嬢様を、シズネちゃんを初めて見たときみたいだ。
 
「ミノリさんは」
「はい」
「どうして、吸血鬼のことなんて、知っていたんですか。どうして、僕にあんな話を、したんですか」
 やめておけばよかったかな、と、口に出してすぐに思った。自分から平穏をぶち壊しに行ったようなものだ。知らなくてもいいじゃないか。そんなこと。
「どうしても、気になる?トモ君にとってそれは、大切なの?」
「はい。……どうしても、気になります」
 それでも、僕はなぜか、引き返すことができなかったのだ。
「そう。じゃあ教えてあげる。私はね、吸血鬼なのよ。欲望に殉じた、誇り高い、吸血鬼の末裔」
 僕と彼女が口を閉じると、ここには他に何もなかった。まるで二人っきりの世界にいるよう。とても寂しい気がしたのだけれど、口を開く気にはとてもならなかった。相槌を打つ気も起きない。彼女も寂しさに耐えかねたのか、いや、おそらくは何の意味もなく、すぐに彼女は続きを口にした。
「自分のことだもの、よく知ってるわ」
「そう、ですか」
「あなたに話したのは、何もしないで奪われてゆくのは、我慢ならなかったから。どうしても、自分のものにしたくなったから。それを知ってどうするのかしら」
 どうするのだろうか。なぜ僕は、こんなことを聞いてしまったのだろう。僕はお嬢様にどんな顔をすればいいんだろう。ミノリさんになんて答えればいいんだろう。
 今は何も、わからなかった。



 なんだかくたくたになって屋敷に帰ってくると、正樹さんに声を掛けられた。
「トモキくん、先ほどお嬢様が探しておりましたから、荷物を置いてからでいいので尋ねてみてください。何かお話があるようでしたよ」
「わかりました」
 このタイミングで話って言ったら、確実に昨夜のことだろう。
「その、執事長は」
「はい」
「昨夜のこと、たぶん、知ってるんですよね」
「はい。一通りは」
「なんで、何も言わないんですか」
「なにか言う必要がありますか?」
 なにかって、あんなことがあったんだから、そりゃ、何かあるだろう。なにしろあんなこと、どう考えたって、普通じゃない。
 しかし、具体的に何を言うのが普通なのか、普通の人は今の僕にどんな声を掛けるのか、僕にはわからなかった。
「ない、かもしれません」
 そういえばそうだ。謝罪するにしても、正樹さんがすることじゃないし、大体の説明はミノリさんに聞いた。問題はそんなところしかなかった。
じゃあ、僕は何を悩んでいるんだ?あとはお嬢様と話をして、それで万事解決なのか?
「トモキ君は何を言われたいのです?何を求めているんですか?」
「わかりません」
「兎に角、お嬢様の部屋に行ってみたらどうですか。あなたが何を気にかけているのか、何を求めているのか、わかるかもしれません」
「……はい」



 一度部屋に戻って、荷物を置いて上着を脱ぐと、すぐにお嬢様の部屋に向かった。すぐに動かないと、お嬢様に会うのが怖くなりそうだったからだ。
 お嬢様の部屋の、重苦しい扉の前に立ってすぐ、勢いがなくならないうちにノックした。
「桐原です」
 つばを飲み込むと、すぐに返事が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼、します」
 不安を無理やり押しつぶして、ダークブラウンの重苦しい扉を開いた。
 開いたままの窓から夕焼けの差す、朱色に染まった中で、お嬢様は椅子に座って、何をするでもなく、そっと佇んでいた。吸血鬼の魅力に、強烈に心を揺さぶられる。ただそこにいるだけのお嬢様は、誘蛾灯のように、破滅へ誘う退廃的な美しさを秘めていた。動けなかった。どうすればいいかわからなかった。ただ、この誘惑に身を任せる事だけはしてはいけないと、たったそのことだけ、僕は知っていた。
 僕が立ち尽くしていると、お嬢様が口を開いた。
「その、昨日のこと、ごめんなさいね」
「……いえ」
 なんて言ったらいいのかわからなかった。ここのところ、わからないことだらけだ。だけど、何も言わなかったら僕が彼女に怒りを抱いているみたいに見えてしまうと思って、少し不愛想になってしまったかもしれないけれども、どうにか一言だけ絞り出した。
 あんなことがあったのに僕は、彼女に何の怒りも抱いていなかったのだ。あんな「普通じゃない」出来事が自分の身に降りかかったのに。
「ミノリさんから、話は聞いた?」
「はい。……吸血鬼が、どうとか」
言葉に詰まった。続く言葉を言うことに抵抗を覚えた。しかし、お嬢様が続きをせかしているような気がして、喉から言葉が押し出されてしまう。
「お嬢様が、吸血鬼だ、とか」
 言ってしまった。後味が悪い。後悔が胸を占める。言わなければよかった。何も言わず、今までどおりに暮らしていくことだって出来たんじゃないのか?いや、あんなことがあった時点でもう、無理だったろうか?
「そう。全部、聞いたのね」
 彼女はほんの少しも表情を変えずに言った。そして、少しだけつまらなそうな表情をすると、少しだけ寂しそうな口調で、口を開いた。
「ねえ、わたしはまだ、人間に見える?」
 一瞬、言葉に詰まった。この時の僕はどんな表情をしていたのだろう。少なくとも、見て楽しめるような顔はしていなかった。
「人間、じゃなきゃ、なんだって言うんですか……?」
 わかっていたのだ。わかっていた。彼女は吸血鬼なのだと。でも、怖かった。彼女にそれを突きつける勇気がなかった。そのくせ、彼女の事を人間だと断じる強さも持ち合わせていなかった。
 でも、僕がこう言ったって、彼女はきっと、わかってしまうだろう。彼女は、たぶん、そういう人だ。
「そう。そうなの。やっぱりあなた、優しいのね。そういうところ、わたしは……いいえ、嫌いじゃなかったわよ」
 彼女は椅子を降りて、窓に向かう。窓枠に手をかけて、僕に背を向けたまま、彼女は続けた。
「そうよ。私、あなたの事、嫌いじゃなかったわよ。だけど、もうだめ。一度血を飲んでしまったのだもの。このままじゃ、いつか私はあなたに血を飲ませてしまう。怖いのよ。もうだめよ。もう人間じゃいられないの。今すぐにも、力づくであなたを私のモノにしたい。あなたの血が、血だけに飽き足らず、心まで欲しいの」
 お嬢様が、シズネちゃんが痛切に心の内を叫ぶ。夕陽と、彼女の容姿と、立派な調度の舞台が合わさって、まるでオペラの一シーンのようだった。夕陽の紅色が、この人には良く似合う。
「……お嬢様が欲しいのは、僕の血ですか」
 彼女は、何も答えなかった。
「……僕を、血袋として雇ったんですか」
 一瞬の沈黙が走る。次にお嬢様が口を開いたときのその表情は、諦観だったろうか、寂しさだっとろうか、それとも。ともかく、一瞬の後に、彼女は口を開いた。
「もうおしまい。あなたの前では人間でいたかったけれど、わたしの方から壊してしまったんだものね。――あなた、クビよ。もともと、正樹さんだけで切り盛り出来てたんだもの。やっぱり執事なんて要らなかったわ。今日中に荷物をまとめて、うちから出て行きなさい。車は手配しておくから」
これが彼女の答えだった。彼女の言葉を最後まで聞くこともなく、僕は自分が何を言ってしまったかを理解した。
だって彼女は、「僕の前では人間でいたかった」と言ってくれたのだ。
同時に、彼女の声が震えていたのにも気づいて、どうにかして食い下がろうとした。僕は彼女のそんな声は、聞きたくはなかったのだ。しかし、何を言っていいか判らなかった。謝るにしても、それでどうなる?謝ったところで、僕が彼女につけた傷は癒えるのか?
「ちょっと……ちょっと待ってくださいよ。急にそんな。ええと、すみません、そんなつもりじゃなくてっ」
結局僕が発したのは、昔何かの本で読んだ定型句。ああ、そういえばあの本の少年も一方的に別れを告げられていたかもしれない。あの本、結末はどうなったっけ。覚えていないや。
「もう、決めたのよ。出て行って。話は終わりよ」
こんなのは嫌だった。こんな終わりかたは嫌だった。どうせなら性欲をぶちまけて、拒絶されたほうがすっきりしたかもしれない。いや、そのときもきっと言いようのない後悔が襲い掛かってくるのだろうか。
僕は、何もすることが出来ずに、そのまま部屋を出た。情けない。僕は今まで、何もしていない。彼女達に、何も出来ていないのだ。ほの暗い廊下に溶け込むように、僕は部屋を出た。
「ごめんなさいね……」
 ちがう。きっと、謝らなきゃいけないのは僕のほうだ。



呆然とお嬢様の部屋を出て、そのまま割り当てられた部屋に戻った。この部屋も、すぐに出て行くことになるのだろうか。ベッドに倒れこんで、枕元にあったリモコンで音楽を再生した。今は何のCDが入っていたっけ。
スピーカーはクラシック音楽を吐き出した。なんだっけ、これ。いつだかお嬢様に薦めてもらったんだっけ。
弦楽器の旋律を聴いていたらなんだか苛々してしまって、すぐにコンポの電源を切った。クラシックを聴くとリラックスできるって言ったやつは誰だよ。出てこい。責任取らせてやる。
いまは、何をする気も起きなかった。お嬢様と、シズネちゃんと和解したいけれど、どうしたらいいのかわからない。いや、和解というが、そもそもいま、僕たちは喧嘩しているのか?多分、そうじゃない。なぜか彼女が僕のことを分かったように、僕も彼女のことがわかる。
彼女の理性的な部分は、僕の血を飲みたくないのだ。彼女は、人間でいたかったから。
でもそれって、彼女の問題だ。僕の問題じゃない。僕にできることなんて、何にもないのだ。せいぜい、なんかの点滴でも打って、僕の血をまずくすることぐらい。そうしたら彼女も僕の血を飲みたくなくなるかもしれない。馬鹿馬鹿しい。
僕はここに来てから、彼女たちに翻弄されてばかりだ。
憂鬱な気分が憤りに変わってゆく。憂鬱が続いたから自律神経が気を利かせて化学物質を分泌したのだろうか。僕は彼女らにいいように扱われてばかりじゃないか。僕は、僕の意思はどこに行った?
憤りに任せて勝手なこと思う。わかっていたのだ。結局は、自分が何もしなかっただけだって。何かしたいとは思う。お嬢様と、ミノリさんと、吸血鬼の二人と、僕はどういう風にしていけばいいか、今は見当もつかなかったけれど、今みたいなのは嫌だ。お嬢様に、ひどいことを言ったまま別れてしまうなんて、嫌だ。
でもやっぱり、どうしたらいいのかわからないのだ。
僕は、彼女たちをどうしたいんだろう。彼女たちに、お嬢様に負けないくらい、純粋に相手のことを想える自信が僕にはなかった。
彼女は、血欲を抑えてなお、僕を好きだと言ってくれたのだ――たぶん。
やはり、彼女に僕のことがわかるように、僕も言葉の端だけで彼女のことがわかるような気がした。
きっと、彼女と僕は似ていたのだ。最初から。二人とも、これ以上ない臆病者だ。じゃあ、彼女はなんで僕の血を飲みたくないんだ?多分、僕に嫌われたくないからだ。吸血鬼として、人間の僕に嫌われるのが、嫌だったのだ。

そしてきっと、本当は、僕の血を吸いたくなるような血欲が、吸血鬼のことが、彼女は大嫌いだったのだ。


何もできずにベッドの上で腐っていると、ノックの音が聞こえてきた。
「私です。今、よろしいですか」
 正樹さんだった。車の用意ができたのだろう。
「……はい」
「失礼します。荷物の用意は、済みましたか」
「はい。もとから、そんなに物も持ってきてないですから」
「そうですか。では、行きましょうか」
「……いえ。まとめてみたら荷物もそんなになかったし、歩いて帰れます」
「そうですか。では、せめて表までお送りいたしましょう」
 僕の私物をぐちゃぐちゃにまとめた鞄を肩にかけて、すっかり馴染んでしまった部屋を出た。忘れ物はないかと、最後に一度だけ振り返る。
何もない部屋の中で、ベッドのシーツにしわが寄っているのが、目についた。なんとなく不快な気分のまま、執事長の、いや、正樹さんの後をついて歩き出す。少し歩けば、すぐに仰々しい正門にたどり着いてしまう。
「今まで、お世話になりました。さようなら」
「いえ、こちらこそ。それに、同じ町に住んでいれば、また会うこともあるでしょう。それはちょっと、いささか性急に過ぎるのではないでしょうか」
 嫌みのない笑顔で正樹さんが言う。
「それに――いえ、兎に角、また、どこかでお世話になることもあるでしょう。おそらくは、近いうちに」
 正樹さんが何を言いかけてやめたのかは少し気になったけれど、追求はしなかった。そんな気分じゃあ、なかった。これでなにか、つまらない、ありふれた答えが返ってきたら、それだけで何かに失望しそうだったから。
「そうですね……では、また」
「ええ。また、どこかで」
 門に背を向けて歩き出す。今すぐにでも走り出したい気分だったけれど、肩にかけた旅行鞄の重さが、それを許さなかった。



「ただいま」
 誰もいないのは分かっていたけれど、なんとなく声を出した。最近見に来てもいなかったから、少し郵便物がたまっていたし、少し掃除も必要そうだった。そういえば、今日の夕ご飯はどうしようかな。最近ろくに料理もしていないや。まあいいか。なんだか今日は食欲がない。
 明日、明日は学校があったっけ。学校の帰りに、必要なものを買ってこなくちゃ。食材も何にもないはずだ。
とにかく今は、休もう。いくら小さいからって、旅行鞄にミニコンポやノートPCを詰め込んで、肩にかけて歩くのは無理があった。くたくただ。
自分の部屋に荷物を降ろし、横になった。この部屋も不自然に空白がある。なんだか、居心地が悪い。久々に実家に帰ってきたというのに。
 そうだ。考えないようにしていたけれど、ここには、何もないのだ。僕しかいない。家に誰かがいることに慣れてしまったのだ、僕は。今まで一人で暮らしていたころは、何も感じなかったのに。
 まあいいや。すぐにまた、つまらないことにも慣れてしまうんだろう。この胸の罪悪感も、苛立ちも、きっとすぐに消えてしまう。人間って、なんだか悲しいけどきっと、そういうものなんだ。僕なんてまだ若輩者もいいところだけど、それだけはなんとなく知っている。だから、だから今日はもう、寝てしまおう。
 荷物もそのままに、僕はすぐにベッドに倒れこんで、眠りについた。


 いつもより早く目を覚ました僕は、シャワーを浴びて学校に向かった。一人で学校に向かうのも久しぶりだ。今日、お嬢様は、学校に来るのだろうか。
――できれば、会いたくない。
とはいえ、もしも今日彼女が休みだったとしても、いつかは顔を合わせなくてはならない日が来てしまうはずだ。そう考えたら、早いうちに済ませておいた方がいいイベントなのかもしれない。そうしたらそのうち、気まずさにも、距離感にも、慣れてしまうのだろう。
そんなことを考えていたら、いつの間にか学校に着いていた。特段早く出てきたわけでもないのだけど、いつもより数分早い。そういえば、僕の家はお屋敷より学校に近いのか。
教室に入ると、花村が席に座って携帯をいじっているのが目に留まった。あいつがこんなに早くから学校に来てるなんて、珍しい。
「よう、こんなに時間に居る珍しいじゃないか」
「ん、ああ。今日はなんか早く目が覚めてなあ。それよりどうした。お前こそ、一人で学校来てるの珍しいじゃん。篠宮は?風邪かなんか?」
「ん、ああ……」
 そうか。ここのところずっとお嬢様と一緒だったから、目についてしまうのか。どう説明したものだろうか。
「色々、あってさ。前の家に戻ったんだよ」
 なんだか寂しい話だけれど。
「ふうん」
「ふうん、って……」
 なんかこの、もうちょっとあるだろ。
「いや、だって聞きづらいだろ……大方予想も出来るし」
「予想?」
 ここのところ、僕身の回りには普通には想像も出来ないような話が飛び交っているのだけど。どういうことだ?まさか、こいつもなにか知っているっていうのか?吸血鬼なんてもののことを。
「まあ……お前が我慢できなくなっちゃってひと悶着あったとか、そういうことだろ?なんていうか、仕方ないよな、あんな娘と同居してたら……」
「全然ちげえよ」
 いや、ある意味では非常にいい線をついているのだけど――襲われたのは僕で、我慢できなくなったのは彼女なのだ。我慢出来なくなったのは性欲じゃないけれど。むしろ、性欲だったらどれだけよかったか。諸手を挙げて歓迎しよう。
「致命的なことにはならなかったようだし、とりあえずおとなしくしとけ。篠宮の気が変わりでもして大事になったら終わるぞ」
「襲ってないっつーのに」
 けど、もしかしたら、そういうことなのか?
 彼女が、僕を襲ったって、要するに、そういうことなのかもしれない。
 僕はあのとき、明らかに彼女に欲情していたのだ。あのままいったら、もしかしたらそういうことになっていたのかもしれない。
そうすると、僕が家を追い出されたのは納得がいかないけれど。そうだ、よく考えれば僕は何もしていないじゃないか。本当に、振り回されてばっかりだ。
結局その日、お嬢様は、学校に来なかった。

続く
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